本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

五木寛之 「大河の一滴」

  人間はただ肉体として生きるだけでなく記憶のなかにも、そして人間関係のなかにも生きている。その人間の死が完成するまでにはやっぱり十ヶ月や一年ぐらいかかるのじゃないか。これがぼくのかたくなな考えです。
  人間的な死ということを考えないで、科学的な生理的な死ということだけで死者というものを取り扱う、それはおそらくいろんな犯罪とどこか根のところで結びあってくるのではなかろうか。人間の命を軽く扱うという点において、そのことを私は考えざるをえません。
  人間が死んでゆくのだ、死んだだけではなくて、死んでゆくのだ、というふうにぼくは思います。人間の自発的呼吸が止まるなどいくつかの条件を満たすと脳死と判定されますが、脳死というのは未完の死ではないか。死が完成するために私たちは誕生と同じように、十ヶ月や一年ぐらいの時間を必要としているのかもしれない。私たちはそのあいだに静かに、死んでいった人たちを死者として送りだす。そして死を完成させ、自分の心のなかに死の固定というか、準備と落ち着きとをもってその人をなつかしく思い返すことができる時がくる。