本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

クリスティーナ・ロセッティ「シング・ソング童謡集」

If a mouse could fly,

   Or if a crow could swim,

Or if a sprat could walk and talk,

   I’d like to be like him.

 

If a mouse could fly,

   He might fly away;

Or if a crow could swim,

   It might turn him grey;

Or if a sprat could walk and talk,

   What would he find to say?

 

もし ネズミが とべるなら

  もし カラスが およげるなら

もし ニシンが あるいて しゃべれるなら

  わたしは そんなふうに なりたい

 

もし ネズミが とべるなら  

  とおくへ とんでいくだろう

もし カラスが およげるなら

  はいいろに なるだろう

もし ニシンが あるいて しゃべれるなら

  どんなことを みつけて いうのだろう

 

安藤幸江 訳  

クリスティーナ・ロセッティ「シング・ソング童謡集」

If hope grew on a bush,

   And joy grew on a tree,

What a nosegay for the plucking

   There would be!

 

But oh! in windy autumn,

   When frail flowers wither,

What should we do for hope and joy,

   Fading together?

 

もし きぼうが しげみにそだつなら

   そして よろこびが きにそだつなら

そこには どんな はなたばが

   できるだろう

 

でも ああ!  かぜのふくあきに

   よわい はなばなは かれる

いっしょに きえていく

   きぼうと よろこびを どうしたらよいのだろう

 

安藤幸江 訳  

クリスティーナ・ロセッティ「シング・ソング童謡集」

If all were rain and never sun,

   No bow could span the hill;

If all were sun and never rain,

   There’d be no rainbow still.

 

もし あめばかりで ひのひかりが なかったら

   おかに にじは かからない

もし ひのひかりばかりで あめが なかったら

   やっぱり にじは かからない

 

安藤幸江 訳  

クリスティーナ・ロセッティ「シング・ソング童謡集」

What are heavy? sea-sand and sorrow:

What are brief? to-day and to-morrow:

What are frail? Spring blossoms and youth:

What are deep? the ocean and truth.

 

なにが おもいの        うみのすなと かなしみ

なにが みじかいの     きょうと あした

なにが もろいの         はるのはなと わかさ

なにが ふかいの         おおきなうみと しんじつ

 

安藤幸江 訳   

クリスティーナ・ロセッティ「シング・ソング童謡集」

Who has seen the wind?

   Neither I nor you:

But when the leaves hang trembling   

   The wind is passing thro’.

 

Who has seen the wind?

   Neither you nor I:

But when the tres bow down their heads

   The wind is passing by.

 

だれが かぜを みたかしら

  わたしも あなたも みていない

でも このはが ゆれているとき

  かぜは とおっている

 

だれが かぜを みたかしら  

  あなたも わたしも みていない

でも きのてっぺんが たわんでいるとき

  かぜは とおっている

 

安藤幸江 訳  

 

 

ダニエル・コーエン「経済は、人類を幸せにできるのか?」訳者あとがき

朝日新聞のインタビュー

「経済成長は、人間社会にとって自然なことではない。18世紀までは、経済的、技術的に進歩があっても、それは人口の増加に寄与するだけで、一人あたりの所得を増やすことはなかった」。けれども「(現代人でも)一人一人の幸福は増えてはいない。経済が成長すれば、一人一人はより多くの財を手にできるが、より幸福にはならない、ということだ」と述べている。

  では、経済成長によって豊かになったことで、人はなぜ幸せにならなかったのか?との記者の質問に対し、「人が幸せを感じるのは成長が加速する時であって、成長が止まれば消える」とし、「人を幸せな気分にするのは成長であって、豊かさそのものではない。『もっと、もっと』という感覚だ」とつづけた。つまり経済成長とは「麻薬中毒」のようなものであって、21成長に生きる私たちは、エコロジー上の大災害を招くこの中毒から、脱出すべきだと説いている。そして「富というものは、働かなければいけない時間を減らすためにあるものだ。貧しい人がたくさん働くのは、まさに貧しいからだ。余裕のある者も同じくらいに働くべきだという考えはばかばかしい」と断言し、(働きすぎの)インタヴュアーを唖然とさせ、読者から大きな反響があった。

 

林昌宏 訳   

ダニエル・コーエン「経済は、人類を幸せにできるのか?」第5章

貿易は、最も脆弱な者を排除し、最も強い者を太らせながら展開する傾向がある。こうして貿易は、最も非効率的な企業を倒産させつつ、全体の生産性を向上させるというわけだ……。しかし残念なのは、これらの新たな理論の枠組みにおいても、失業者全員を救済するのは無理だということだ。優良企業が敗者全員を吸収するというリカードの想定は非現実的なのだ。グローバリゼーションは、やはり社会に傷跡を残す……。
今後、国際貿易は、リカードの比較優位論の新たな解釈に従って機能する。すなわち、それは脆弱な者は消え去り、適応力のある者が繁栄するという、ネオダーウィニズムと呼ばれる論理だ。だが、市場機能だけでは、脆弱な者の社会復帰は果たされない。だからこそ、勝者が敗者に手を差し伸べるための補助的なメカニズムを整えることが社会の課題になったのだ。もしそれができないのなら、人々はグローバリゼーションを即座に拒否するだろう。

林昌宏 訳

*比較優位論→国際貿易において、商品の生産費を他国と比較し、優位の商品を輸出し劣位の商品を輸入すれば、双方が利益を得て国際分業が行うことができる、という説。

ダニエル・コーエン「経済は、人類を幸せにできるのか?」第2章

イスラエルの保育園の園長は、子どものお迎えの時間に遅れる親が多いことに手を焼いていた。その解決策として、園長は遅れる親に課金することにした。今後、親は一時間遅れるごとに10ドルを支払わなければならないとしたのだ。ところが、その結果は、期待を裏切るものだった。驚いたことに、翌日からお迎えの時間に遅れる親の人数は三倍に増えたのだ。その理由は単純で、献血の場合と同様だ。つまり、課金する以前では、親たちは、子どもに恥をかかせてはいけない、保育園の先生たちに迷惑をかけてはいけないという道徳心から、お迎えの時間に間に合うように努力してきたのだ。ところが、遅れた親には課金するという宣言がなされると、親たちは、自分たちの行動の価値尺度を即座に変えた。彼らは、10ドルならベビーシッターの料金と変わらないと計算するようになったのだ……。
お迎えの時間に遅れると一時間10ドルを課金した園長と、報奨金を提示して献血者の人数を増やそうとした輸血センターの所長は、同じ論理的思考の間違いを犯した。二人とも、道徳的動機づけを加えるのは可能だと考えたのだ。だが、彼らが目の当たりにしたのは、まったく別の現実だった。すなわち、金銭的報酬の効果が道徳的報酬の効果に加わるのではなく、金銭的報酬が道徳的報酬を蹴散らしたのだ。状況によって、人は道徳的行動をとったり、利益を計算した行動をとったりするが、両方を同時に選択して行動することはできないのだ。あなたがタクシーに乗る代わりに、友だちがあなたを自宅まで車で送ったとしよう。発生しただろうタクシー代を友だちにあげて感謝の印としたのなら、その人はあなたの友だちではなくなるだろう。

林昌宏 訳

ダニエル・コーエン「経済は、人類を幸せにできるのか?」まえがき

  獲得してもすぐに失われてしまう“幸せ”という目的を、絶えず課してくる社会のパラドックスを、どのように理解すればよいのだろうか。その答えはすぐに浮かんでくる。すなわち、人類はあらゆることに慣れてしまうので、幸せになれないのだ。いかなる進歩を達成しようとも、それらはすぐに日常の出来事になってしまう。幸せは常に、純白のページの上に描かれるのだ。ところが、人類はそのような適応力に気づかないために、人類の幸せを願う夢は、けっして満たされることがないのである。

 

林昌宏 訳  

ナタリー・バビット「時をさまようタック」

「死ぬことは、生まれたとたんに約束された車輪の一部なんだよ。すきなところだけとり出して、のこりをほうり出すわけにはいかないだろう。そういう全体の一部になるということは、神さまのお恵みだといってもいいな。ところが、わしの一家は、そのお恵みをもらえなかった。生きるってことはたいへんな仕事さ。だが、わしらのように死をもたないで、ただ生きるだけというのは価値のないことだ。まったく意味のないことだ。車輪によじのぼる方法があるなら、わしはすぐにそうするよ。死ぬことなしに生きることができるものか。わしらは生きているといえないよ。車輪のわきにころがっている石ころみたいなものだ。これからもずっと石ころなのさ。」

 

小野和子 訳  

ナタリー・バビット「時をさまようタック」

「わしたちのまわりにいるものはなにか、わかるかい、ウィニー。」

「生命だよ。うごいて、成長して、変化して、二分とおなじ姿をしていない。この水も、毎朝、こうして見ればおなじ水に見える。しかし、そう見えるだけでおなじでないんだよ。一晩じゅう、うごいている。西へのびるむこうの小川からながれてきて、こっちの東の小川をとおって出ていくのさ。いつもしずかに、いつもあたらしく、うごいているんだ。ほとんど目に見えないだろう?ときには、風が水のながれをさかさにうごかしているように思うことがあっても、ほんとうはそうじゃない。ながれはいつもそこにあって、水は自分でうごいているんだよ。そして、長い時間をかけて、いつか海にたどりつくのさ。」

「そのとき、なにがおこるか、わかるかい。水に、だよ。太陽は海から水を吸い上げて、雲にはこびかえす。そうすると、雨がふってくる。雨は小川におち、小川はまたながれつづけて、ぜんぶもとのところへかえすのだ。ウィニー、それが車輪なんだよ。みんな、やすみなくまわる車輪なんだよ。カエルもその一部だし、虫も、魚も、ツグミも、そして人間も。みんなおなじところにとどまっていない。あたらしくなり、成長し、変化する。うごきつづけている。そういうことになっているんだ。それが自然な姿なんだよ。」

 

小野和子 訳  

ナタリー・バビット「時をさまようタック」

  土地をもつということは、考えてみればおかしいことだ。いったい、どのくらい深くまでもつことになるのだろう。ある人が土地をもったとしよう。その人は土地のずっと下まで、つまり、地球の中心ですべての土地がひとつになっているところまで、もつことになるのだろうか。それとも、ごくうすい表面だけをもつことになるのだろうか。その下で仲よしの虫たちが行ったり来たりしても、不法侵入だなんて心配しなくてもいいように。

 

小野和子 訳  

 

 

タゴール「ギタンジャリ」

95

いのちの しきいを越えて

初めて この世に来たとき

私は知らなかった。

この広大な 神秘の中へ

真夜中の森の 一つの蕾のように

わたしを誕生させた力は 何だろうか!

暁の光を 見上げたときすぐに

わたしはこの世の よそ者でなく

名前も形もない 不思議なものが

わたしの母の姿となって

その腕に わたしを抱きあげたことを知った。

それと同じように 死に当っても

前から わたしを知っていたように

あの知られないものが 現れるだろう。

わたしは この生を愛するゆえに

死をも また愛するように なるだろう。

赤児は 母が右の乳房から 引き離すと泣くけれど

すぐに 左の乳房を あてがわれて 安心するのだ。

 

高良とみ 訳