本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

今日われわれは、明日この世で何が起こるのかをもはや知らない。そして、そのことにひそかな喜びを感じているのである。というのは、予測しがたいということ、地平線が常にあらゆる可能性に向かって開かれていること、そういうものこそが紛れもない生であり、生の真の充実だからである。

 

桑名一博 訳  

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

つまりわれわれの時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを自分に感じながら、何を実現すべきかが分からないのである。つまりあらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人にはなれず、自分自身の豊かさの中で自己を見失っているのだ。われわれの時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの技術を持ちながら、結果的には歴史上もっとも不幸な時代として波間に漂っているのである。

 

桑名一博 訳   

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

大衆には強烈に生きるための道具は与えられたが、偉大な歴史的使命に対する感受性は与えられなかった。彼らには誇りと近代的手段の力が性急に接種されたが、精神の接種はなされなかったのだ。そのため大衆は、こと精神に関しては何も望まず、新しい世代の人々とはまるでこの世界を、過去の痕跡もなければ、昔から続いている複雑な問題もない楽園ででもあるかのようにみなして、自分の手に世界の支配権を取ろうとしたのである。

 

桑名一博 訳   

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

彼らは安楽しか気にかけていないにもかかわらず、その安楽の根拠には連帯責任を負っていないのだ。大衆は、文明の利点の中に、非常な努力と細心な注意によって初めて維持されうる驚嘆すべき発明や構築物を見ようとしないのである。だから彼らは、まるでそれらが生まれながらの権利ででもあるかのように、自分たちの役割は、文明の恩恵だけを断固として要求することだと考えているのである。

 

桑名一博 訳   

 

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

一般に考えられているのとは反対に、本質的に奉仕に生きている者は選ばれた被造物であって、大衆ではない。すぐれた人間は、自分の生を何か超越的なものに奉仕させないと生きた気がしないのだ。したがって彼は、奉仕しなければならないことを圧迫だとは考えない。たまたま奉仕する対象が欠けると不安を感じ、自分を押えつける、より困難で、より求めることの多い新しい規範を発明する。

 

桑名一博 訳    

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

聖者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼はきわめて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさの中に腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。

 

桑名一博 訳  

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

今日の大衆は以前のいかなる時代の大衆人よりも利口であり、より多くの知的能力をそなえている。だがその能力も、彼らのために何の役にも立っていない。厳密にいうと、能力をそなえているという漠然とした意識は、彼らが自分の中に閉じこもり、能力を使わないということに役立っているだけである。大衆人は偶然が彼の内部に堆積したきまり文句、偏見、思想のきれはし、あるいは無意味な言葉の在庫品を断固として神聖化し、それを大胆にもあらゆるところで他人に押しつけているが、その大胆さたるや、彼らが単純だからという他には説明のしようがない。・・・つまり凡庸な人間が、自分はすぐれていて凡庸ではないと信じているのではなく、凡庸な人間が凡庸さの権利、もしくは権利としての凡庸さを宣言し、それを強引に押しつけているのである。

 

桑名一博 訳   

オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」

こうした専門家こそ、私が今までさまざまな側面と様相から明らかにしようとしてきた新しい奇妙な人間の見事な一例である。私は先に、こうした人間形成は歴史に先例がないと言っておいた。専門家は、この人間の新種を極めてはっきりと具体化してくれ、この新種の持つ根本的な新しさの一切を見せてくれる。なぜならば、以前は人間を単純に、知識のある者と無知なる者、多少とも知識のある者と多少とも無知なる者とに分けることができた。ところが専門家は、その二つの範疇のどちらにも属させることができないからだ。専門家は知者ではない。というのは、自分の専門以外のことをまったく何も知らないからである。と言って無知な人間でもない。なぜなら、彼は「科学者」であり、彼が専門にしている宇宙の小部分については大変よく知っているからだ。われわれは彼を知者・無知者とでも呼ばねばならないだろう。これは極めて重要なことである。というのは、そうした人間は自分が知らないあらゆる問題についても、無知者として振舞わずに、自分の専門分野で知者である人がもつ、あの傲慢さで臨むことを意味しているからである。

 

桑名一博 訳   

ひろさちや「『狂い』のすすめ」

  人生の旅には、目的地があってはならないのです。目的地に到着できるかできないか、わからないからです。
  目的地というのは、「人生の意味」や「生き甲斐」です。人生に何らかの目的を設定し、その目的を達成するために人生を生きようとするのは、最悪の生き方です。
  人生の旅は、ぶらりと出かけるのがいいのです。どこに行く当てもない。いわば散歩の要領ですね。  

小川洋子「博士の愛した数式」

  この世で博士が最も愛したのは、素数だった。素数というものが存在するのは私も一応知っていたが、それが愛する対象になるとは考えた試しもなかった。しかしいくら対象が突飛でも、彼の愛し方は正統的だった。相手を慈しみ、無償で尽くし、敬いの心を忘れず、時に愛撫し、時にひざまずきながら、常にそのそばから離れようとしなかった。   

ルソー「エミール」第1編

そしてわたしはさらに、生徒と教師は、その運命がいつも一体となっているくらいに、おたがいに別れられないものと考えるようになることを望みたい。先になると別れることがわかってくると、おたがいに他人になる時期が見えてくると、かれらはすでに他人なのだ。二人ともそれぞれの狭い世界にとじこもり、一緒にいなくなるときのことばかり考えて、一緒にいるのはいやいやながらということになる。弟子は先生をただ、子ども時代のしるしであり、やっかいなものであるかのように考える。先生は弟子をただ、はやく肩からおろしてしまいたい重荷のように考える。かれらはいずれも、おたがいにやっかいばらいをする時を待ちこがれる。そして二人のあいだにはほんとうの結びつきというものはまったく見られなくなるので、一方は監督を怠り、他方はいうことをよくきかない、ということになる。

 

今野一雄 訳    

ルソー「エミール」第2編

  子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。すぐに望みがかなえられるので、子どもの欲望は絶えず大きくなって、おそかれはやかれ、やがてあなたがたの無力のために、どうしても拒絶しなければならなくなる。ところが、そういう拒絶になれていない子どもは、ほしいものが手にはいらないということより、拒絶されたことをいっそうつらく考えることになる。かれはまず、あなたがもっているステッキがほしいという。つぎには時計がほしいという。こんどは飛んでいる鳥がほしいという。光っている星がほしいという。見るものはなんでもほしいという。神でないのに、どうしてそういう子どもを満足させることができよう。

 

今野一雄 訳    

ルソー「エミール」第3編

  あなたがたの生徒の注意を自然現象にむけさせるがいい。やがてかれは好奇心をもつようになるだろう。しかし、好奇心をはぐくむには、けっしていそいでそれをみたしてやってはいけない。かれの能力にふさわしいいろいろな問題を出して、それを自分で解かせるがいい。なにごとも、あなたが教えたからではなく、自分で理解したからこそ知っている、というふうにしなければならない。かれは学問を学びとるのではなく、それをつくりださなければならない。かれの頭のなかに理性のかわりに権威をおくようなことをすれば、かれはもはや理性をはたらかせなくなるだろう。もはや他の人々の臆見に翻弄されるだけだろう。

 

今野一雄 訳