本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

村上春樹 「国境の南、太陽の西」

「雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。」

 

G.ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」

「さあ」と彼は、怒りに身を震わせながら言った。「相手が誰なのか教えるんだ」
彼女は、ほとんどためらわずに、名前を挙げた。それは、記憶の闇の中を探ったとき、この世あの世の人間の数限りない名前がまぜこぜになった中から、真っ先に見つかったものだった。彼女はその名に投げ矢を命中させ、蝶のように壁に留めたのだ。彼女がなにげなく挙げたその名は、しかし、はるか昔からすでに宣告されていたのである。
サンティアゴ・ナサールよ」彼女はそう答えた。

 

野谷文昭訳      

ノーム・チョムスキー 「人類の未来」より

  ヒトラーポーランドを侵略した際に使ったのが「自衛」という理由でした。「無謀なポーランドのテロ行為」からドイツを「自衛」するということだった。チンギス・カンもおそらく、自分の行為は「自衛」だと言ったでしょう。「自衛」という言葉は無意味です。単なる侵略と暴力のことだ。
  日本の平和憲法は、完璧ではないにしろ、おそらく世界中が見習うべきものです。第二次世界大戦後に生まれた、重要な進展だったと言えます。それが崩されていくのを見るのは、残念としか言いようがありません。

 

吉成真由美 インタビュー・編    

レイ・カーツワイル 「人類の未来」より

  もちろん、人間と同様、コンピュータの能力も無限ではありません。そのように見えるかもしれないけれども、データすべてを記憶するわけではない。知性の特性の一つとして、情報の取捨選択ということがあります。そうしなければ押し寄せる情報の波にのまれてしまいますから、常に選択をしていかなければなりません。
  10年、20年前に起こったことを覚えているという場合、それは起こったことをビデオのように記憶しているというのではなく、残っている記憶の断片をつないで、新たにその状況を再構成しているのにすぎないのです。コンピュータも基本的に同じです。それが知性のエッセンスというものです。
  刻々と入ってくるすべての事柄を覚えようとしないこと。そうでないと、膨大な記憶量を誇るように見えるコンピュータでも、簡単に情報量に圧倒されてしまうのです。常に、後で必要になる重要なエッセンスだけを残して、他を破棄するということを行う必要があります。コンピュータでも同じことができますし、AIも当然このように働きます。
  実際、コンピュータが車を運転できるということは、何が重要なのかを判断できるということです。これはとても人間的なタスクです。運転しながら、通り過ぎていく樹のすべての枝ぶりや葉のつき方に注意を払うことは重要ではありませんが、もしボールが目の前に飛んできたら、ボールがあるということは、近くにそのボールを追いかけている子供がいるかもしれないから、特別な注意を払う必要がある、というふうに仮定できる知能を持っていなければならない。
  樹に何枚の葉がついているかというようなことに注意を払わないで、その状況を分析して、重要なことだけにフォーカスする。それが知能のエッセンスでしょう。マシーンもそれができるようになってきています。

 

吉成真由美インタビュー・編    

 

 

 

レイ・カーツワイル 「人類の未来」より

  民主主義そのものが、コミュニケーション・テクノロジーの発達によって直接支えられていると言えます。コミュニケーション手段として、本の印刷が可能になり、電話が出てきて初めて、最初の近代的なデモクラシーが出現しました。100年前、世界中の民主主義国家は、片手で数えるほどしかなかった。200年前は、たった一つしか存在しなかったのです。

 

吉成真由美 インタビュー・編    

シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」自我

   不幸の淵に沈み、あらゆる執着が断たれても、生命維持の本能は生きのびて、どこにでも巻きひげを絡ませる植物よろしく、支えとなりそうなものに見境なくしがみつく。かかる状況にあっては、感謝(低劣な次元のものはいざ知らず)や公正は思念にすらのぼるまい。隷属。自由意志を支えるエネルギーの余剰量がたりない。この余剰のおかげで事象にたいして距離をおくことができるというのに。この局面から捉えられた不幸は、剥きだしの生のつねとして、切断された四肢の残滓や蠢き群れる昆虫にも似て、ぞっとするほどおぞましい。形相なき生。生きのびることが唯一の執着となる。いっさいの執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である。
  この境界をふみこえ、ある期間その状態にとどまり、その後、なんらかの僥倖に恵まれたとき、そのひとはどうなるのか。この過去からどうやって癒やされるのか。
  かかる仕組ゆえに、「不幸な人びとにとって生ほど甘美に思えるものはない。たとえ彼らの生が死より好ましいとは思えぬときでさえも」。
  かかる状況で死を受け入れることは執着のまったき断念を意味する。

 

冨原真弓 訳     

シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」愛

  眼のまえに、全世界を、全生命を所有していることを忘れるな。おまえにとっての生命は、ほかのいかなる人間にとってよりも、実在的で、充溢し、晴朗たりうるし、また、そうあらねばならない。いかなる放棄によってもあらかじめ生命の十全性をそこなうな。いかなる情愛によっても自己を牢獄につなぐな。おまえの孤独を守りぬけ。いつの日か、そんな日が来るならの話だが、真の友情が与えられるとき、内面の孤独と友情との対立はもはや存在するまい。逆に、この不謬の徴によってこそ友情は識別可能となる。その他の情愛は激しく制御されねばならない。

 

冨原真弓 訳     

シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」宇宙の意味

  執着を断つのではない。執着の対象を変える。森羅万象に執着するのだ。
  憎んでいるものをやがては愛せるかもしれない。とことん憎悪を味わいつくす。憎んでいるものを知りつくすこと。

 

冨原真弓 訳    

シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」代数学

  現代世界の頽廃の特徴のひとつは、努力と努力の成果をむすぶ関係性を具体的に思考できないことだ。これを忘れてはならない。介在物が多すぎる。他の場合とおなじく、関係性は思考ではなく事象のなかにやどる。すなわち金銭のなかに。

 

冨原真弓 訳    

シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」「社会の烙印を......」

  抑圧も一定の段階をこえると、権力者はその奴隷たちから必然的に崇拝されるにいたる。絶対的な強制のもとで他者の玩具になりはてたと考えるのは、人間にとっては堪えがたい。だから、強制をまぬかれる手段がすべて奪われている以上、強制的にさせられていることを自発的にやっているのだと、みずからを説得する。ようするに服従を献身にすりかえるのだ。(ときには課される以上に骨折りをすることで、苦しみはやわらぐ。ちょうど子どもが、罰として課されるならへこたれるような身体的な苦痛も、遊びのためなら笑ってこらえるのとおなじ現象による。)かかる迂回路をへて隷属は魂の品位を貶める。じっさい、この献身は自身にたいする虚言にもとづく。どんな理由をあげても吟味に堪えないからだ。

 

冨原真弓 訳    

シモーヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」労働の神秘

  人間の偉大さとはつねにおのれの生を創りなおすことだ。与えられたものを創りなおす。意に反してこうむるものをすら鍛えあげる。労働を介しておのれの本来的な実存を生み出す。科学を介して象徴群を手段に宇宙を創りなおす。芸術を介しておのれの身体と魂との絆を創りなおす。

 

冨原真弓 訳    

スベトラーナ・アレクシエービッチ 「チェルノブイリの祈り」第3章

  それが起きたのは金曜日の夜から土曜日にかけてのことです。朝、だれもなにひとつ疑ってみませんでした。私は息子を学校におくりだし、夫は床屋に行きました。昼食のしたくをします。まもなく夫が帰ってきて「原発が火事らしい。ラジオを消すなという命令だ」という。いい忘れましたが、私たちはプリピャチ市に住んでいました。原発のすぐ近くに。暗赤色の明るい照り返しが、いまでも目のまえに見えるんです。原子炉が内側から光っているようでした。ふつうの火事じゃありません。一種の発光です。美しかった。こんなきれいなものは映画でも見たことがありません。夜、人々はいっせいにベランダにでました。ベランダのない人は友人や知人のところに行ったのです。私のアパートは九階建てで、見晴らしが抜群でした。子どもたちをつれだして抱き上げ「さあ、ごらん。覚えておくんだよ。」それも、原発で働いている人たちが。技師、職員、物理の教師が……。悪魔のちりのなかに立ち、おしゃべりをし、吸いこみ、みとれていたんです。ひと目見ようと何十キロもの距離を車や自転車でかけつけた人たちもいた。私たちは知らなかったのです。こんなに美しいものが、死をもたらすかもしれないなんて。確かににおいはありました。春のにおいでも、秋のにおいでもない、なにかまったくほかのにおい。地上のにおいではありませんでした。のどがいがらっぽく、涙が自然にでてきました。

 

松本妙子 訳