本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」11

  当てずっぽうに放たれ
空を駆け横切りゆく矢、
どこに揺れながら突き刺さるのか
知りようもない。

 

  嵐が木から
もぎとる枯葉、
どこの溝で塵に戻るのか
誰も言えはしない。

 

  風が海に巻き上げ
押しゆく大波、
転がり過ぎゆき
どこの浜辺を目ざし進んでいるのか分からない。

 

  揺らめく輪をなしてきらめき
今にも消えようとする光、
そのうちのどれが最後まで燃え残るのか
知りようもない。

 

  それが僕だ、あてどなく
世界を横切ってゆく、
どこから来たのかも、どこへ僕の歩みが
僕を連れていくのかも思うこともなく。

 

山田眞史 訳  

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」15

  青い水平線が
遠い彼方にかすむのを
黄金のゆらめく粉々のベールを
透かして見つめている時、
惨めな地べたから駆け上がり
あの黄金の霧とともに
漂えそうに僕には思える、
軽々とした粒子となって
霧のように形をなくして!

 

  夜 暗い天の底に
星たちが
燃えたつ火の瞳のように
揺れているのを見つめている時、
ひと翔びであの星たちのきらめくところに昇り、
その光のなかに身を沈め、
そして星たちとともに
燃えあがる焔のなか
口づけをかわし、この身を溶かせそうに僕には思える。

 

  僕は懐疑の海を漕ぎ進み
自分の信ずるものすら知らずにいる。
だが、しかし、この熱い思いが僕に告げる。
汚れなき何ものかを
ここに  内に  僕は持っては、いるのだ、と。

 

山田眞史 訳    

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」58

  今日は昨日のよう、明日は今日のよう、
そして永久に同じ!
灰色の空、果てしない地平線
そして歩く……歩く。 

 

  間の抜けた機械のように
拍子を刻んで動く心臓。
とんまな知性は
脳の片隅で眠ったきり。

 

  天国を願い望む魂は
信仰もなく これを求める。
目的もないままの疲労、なぜとも
知らずに転がりゆく波。

 

  同じ歌を同じ調子で
休むことなくうたう声。
絶えまなく落ちては落ちる
単調な水の滴。

 

  こうして日日はすべりゆく
あとからあとから、
今日は昨日と同じこと……そしてすべての日日が
歓びも苦しみもなく。

 

  ああ! 時には僕は懐かしむ、ため息をつきながら
昔の悲嘆を!
苦悩はつらいさ、しかし
悩みですらも生きている証!

 

山田眞史 訳    

グスターボ・アドルフォ・ベッケル 「ベッケル詩集」70

  何の夢を見たのかすら分からない
昨夜のことだ。
悲しい、とても悲しい夢だったにちがいない、
目ざめたあとも僕は苦しかったから。

 

  身を起こし、気づいた
枕がぬれていた、
そしてそれに気づいた時に、はじめて感じた、
魂が苦い歓びに満ちるのを。

 

  涙をしぼりだす
夢は悲しい。
でも、僕は悲しみのなかに歓びを覚えた……
まだ僕に涙が残っていると知ったのだ!

 

山田眞史 訳     

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第1章

自然の気まぐれに翻弄されなくなったことの代償は、社会と文明に依存せざるを得なくなったことである。社会が全体として高度化するほど、その構成員は個人として独力では生き延びられなくなる。社会の分業化が進むほど、生存に関わる程度にまで相互依存の度合いは高まる。

 

動物が必要とするものは、人間に比べたら微々たるものに過ぎない。これに対して人間は、自分の ニーズを満たすことができない。どれほど金持ちになって、21世紀のテクノロジーを手にしても。・・・文明人の場合、持てば持つほど、洗練されゆたかになるほど、必要なものは(けっして満たされないものも含め)増えていくように見える。何か一つを買えば、理論的には必要なものが一つなくなるはずだ。したがって、必要なものの総数は一だけ減るはずである。ところが実際には、「欲しいもの」の総数は、「持っているもの」の総数が増えるにつれて増えていく。ここで、人間の満たされない欲望に気づいていた経済学者のジョージ・スティグラーの言葉を引用したい。「ごくまともな人間が望むことと言えば、欲望を満たすことではなく、もっと欲しがること、もっとよいものを欲しがることだ」。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  人間は自分の理論を通じて世界を発見するだけでなく、世界を形成する。単に自然を加工する(大地を耕し、種を蒔き、干拓して土地の効率や肥沃度を高める)のではなく、より深い存在論的な意味で形成するのである。新しい言語形式や新しい分析モデルを発見したとき、または古い形式やモデルを捨てたとき、人間は現実を構築あるいは再構築している。モデルは人間の頭の中にだけ存在するのであって、「客観的な現実」の中には存在しない。この意味で、ニュートンは重力を発見したのではなく、発明したのだと言えよう。ニュートンは完全に抽象的な架空のフレームワークを発明し、それが広く受け入れられ、やがて現実に「なった」。マルクスもやはり発明をした。階級の搾取という概念を、である。彼の着想によって、ほぼ一世紀にわたり世界の大半の国で歴史と現実の認識が変わった。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  遊牧の民であるヘブライ人は、その特徴の多くをアブラハムから受け継いでいる。アブラハムカルデアの都市ウルを離れた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と主から命じられたためだ。移動生活を好み所有に縛られないことは、ヘブライ人の重要な特徴である。このような生活様式が経済に与える影響は、当然ながらきわめて大きい。第一に、このような社会では人間関係が密になり、あきらかに相互依存性が高まる。第二に、ひんぱんに移動するため、運べる以上のものは所有できない。彼らの物質的財産は、全部合わせてもたいした重さにならなかった。物理的な重量は、人をその土地に縛る。
  さらにヘブライ人は、所有主と所有物の間には目に見えない双方向性があることに気づいていた。人は物質的な財産を所有するが、しかしある程度まで、所有物は持ち主を所有し、その物に縛りつける。ひとたびある種の物質的な快適さに慣れてしまうと、それに背を向け、物を持たずに自由に生きるのはむずかしい。シナイ砂漠での物語では、快適と自由の二律背反が描かれている。ヘブライ人は、エジプトでの隷属生活から解放されてしばらくすると、モーセに不平を言い始める。
  モーセがじつに偉大だったことの一つは、不平を言う人々に対して、奴隷になって「ただで」食べ物をもらうよりも自由で飢えているほうがよいのだ、ときっぱり言い切ったことである。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  時間と貨幣の関係は、じつに興味深い。貨幣はいくらかエネルギーに似ており、時間軸に沿って移動できる。このエネルギーはたいへん役に立つと同時に、きわめて危険でもある。このエネルギーを時空間の連続体の中に置くと、どこに置いてもそこで何かが起こる。エネルギーとしての貨幣は三次元に移動可能だ。垂直方向(資本を持つ者が持たない者に貸す)、水平方向(水平的水平的すなわち地理的な移動のスピードと自由度は、グローバリゼーションの副産物、いやむしろ推進力である)はもちろん、人間とは異なり時間軸に沿っても移動できる。貨幣のタイムトラベルが可能なのは、まさに利子があるからだ。貨幣は抽象的な存在であり、状況にも、空間にも、そして時間にさえ縛られない。ただ約束すればいいのだ。書面でもいいし、口頭でもかまわない。 「では今日からカウントしてください。必ずお返ししますから」。これであなたはドバイに超高層建築を建てることだってできる。もちろん貨幣それ自体にはタイムトラベルはできない。だが貨幣は記号にすぎない——エネルギーを物質的・具体的に表現しているだけである。貨幣のこの性質のおかげで、将来のエネルギーを今日の利益のために移転することが可能になる。債務が未来から現在にエネルギーを移転できるのに対し、貯蓄は過去から今日にエネルギーを移転することができる。金融政策と財政政策は、このエネルギーを管理・運用することにほかならない。
  今日に移転された貨幣のエネルギー特性は、GDP統計といったもので表すことができる。しかし時間の不確定性があるため、GDP成長率を巡る理論はしばしば無意味に陥りやすい。端的に言ってGDPの伸びは、債務の助け(さらには財政赤字または黒字という形での財政政策)、あるいは金利の助け(金融政策)に左右されるからだ。GDPよりも数倍大きい債務が背後に存在する状況で、GDPの伸びを云々することに何の意味があるだろうか。富を得るために莫大な借金をしていたら、富を計測することに何の意味があるだろうか。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第2章

  安息日を守りなさいという命令には、創造には目的があり、終わりがあるというメッセージも込められている。創造するために創造するのではない。すべての生き物は、達成と休息とよろこびを見出すように創造されている。あるものの創造を終えたことは、次の創造へ向かうことを意味するのではなく、そこで休息することを意味する。経済学の言葉で言えば、効用を恒久的に増やし続けることではなく、効用を得たところで休むことに、効用の意義がある。なぜ私たちは、利得を増やし続けることは学んでも、得たものを楽しみ、満足し、愛でることを学ばないのだろうか。
  今日の経済学からは、この視点が抜け落ちている。経済活動には、達成して一休みできるような目標がない。今日では成長のための成長だけが存在し、国や企業が繁栄しても、休む理由にはならない。よりいっそうの高業績をめざすだけである。休息の必要性が認められているとしても、それは達成感に浸り成果を楽しむためではない。酷使された機械の休息、つまり疲れた体を休め元気を回復するための休息である。今日では「休息」という言葉自体がほとんど使われず、ほとんど軽蔑されているのも、ふしぎではない。

 

村井章子 訳    

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第4章

今日では労働は不効用(苦痛)であって、効用(快楽)を生むのは消費だとされている(だから人間は消費のために働く)。だが私たちは、労働の存在の深遠な意味を見落としているのではないか。つまり労働は人間に固有のものであり、人はそこに深い意義を認め、人生の目標の一部さえ見出す。それは一部ではあっても、重要な一部である。

 

村井章子 訳    

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第4章

  実際、お金で買えないもの、たとえば友情には、売買や物々交換をする手だてはいっさいない。親友や心の平穏といったものを買うことはできない。だが、それに近いように見える代用品であれば、買うことが可能だ。あなたは友人のためにレストランのディナーを買うことはできるが、それで親友を買えるかと言えば、答はノーである。あるいは平和に暮らそうと山に別荘を買うことは可能だが、平和な暮らしそのものを買うことはできない。広告は、まさにこの原理で機能している。広告は、 まずあなたに買えないものを示す(安眠、しあわせな家族の朝食、美など)。そして、買うことのできる代用品(高価なベッド、朝食用シリアル、山小屋、シャンプー等々)を提案するのである。すると消費者は、それが幻想であって、広告を演じているのは俳優なのだと承知していても、高価なベッドや枕(安眠できないのは安物を使っているせいだ)、新製品のヨーグルトとシリアル(しあわせな朝食にはそれが必要だ)、シャンプー(広告中のモデルは一度もそれを使ったことはないにちがいないが)が欲しくなり始める。
  チェコの哲学者ズデニェク・ノイバウエルが「価格は神聖ではない」と言ったのは正しい。ドイツの社会学ゲオルク・ジンメルも、お金は「通俗的だ」と述べたとき、同じことを考えていたのだろう。「ものは、そのものの存在意義よりも低い値段を付けられる。……貨幣は、いかなるものについても等しい価値を持つがゆえに通俗的だ。差異を認められるのは、唯一無二の価値を持つものだけである。いかなるものについても等しい価値を持つとは、最も価値が低いものについても等しい価値を持つということだ。この理由から、貨幣は最も価値の高いものを最も低い水準まで貶める。これが、貨幣による等価プロセスにつきまとう悲劇だ。このプロセスは、最も価値の低い要素と直結している」。大切なものにこのプロセスが適用されれば、「儲けようとしている」とか「お金のためにやっている」と非難され、侮辱の材料にもなる。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第5章

おそらく近代という時代の最も顕著な特徴は、「なぜ」よりも「どうやって」が重視されるようになったことだろう。言うなれば、本質よりも方法が重要になった。そして世界から神秘のベールを剥ぎ取り、機械論や数学や決定論や合理主義の衣装でくるもうとし、実証的に確かめられない原理、たとえば信仰や宗教といったものを一掃しようと試みた。だが残念ながら、そうした姿勢で臨んでみても、やはり世界の秘密は今日にいたるまで解かれておらず、信仰や信念なしには機能しない。

 

村井章子 訳  

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」第8章

絶えず多くを欲しがるうちに、私たちは労働の楽しみを台無しにしてしまった。あまりに欲しがり過ぎ、あまりに働き過ぎている。現代の文明は、過去のどの文明よりもゆたかではあるが、満足感すなわち「十分」という感覚からはほど遠いという点では、はるか昔の「未発達」な文明に劣るとは言わないまでも、さして変わらない。あらゆる犠牲を払ってでも、つねにGDPを増やし生産性向上させる必要がもしなかったら、つねに「額に汗して」働き過ぎになることはなかったと思わずにはいられない。


すこし前までは、多くを手に入れたら、必要なものや欲しいものは少なくなると考えられていた。だがいまや、それは思い違いだったことがあきらかになっている。持てば持つほどニーズは増えるのである。だから、けっして満たされることはない。経済的に言えば、供給の伸びが新しい需要の伸びに追いつくことはけっしてない。マルサスが気づいていたとおり、伸びに拍車がかかるだけである。経済学者のドン・パティンキンは、「歴史が教えてくれるところによれば、欧米社会は欲望を満足させる手段の開発より速くとは言わないまでも、すくなくとも同じペースで、新たな欲望を創出してきた」と述べている。これでは欲望が満たされるはずがない。ジジェクは、「欲望の存在理由は、それを完全に満たすことではなく、欲望を再生産することにある」と言った。また旧約聖書には、「目は見飽きることはなく、 耳は聞いても満たされない」とある。


持てば持つほど欲しくなるのはなぜだろう。持てば持つほど必要なものは減るという従来の見方は、直観的に頷ける。必要の領域から所有済みの領域へ移るものが増えるほど、必要の領域は縮小するはずだ。そうすれば消費は飽和に、ニーズは満足に達するにちがいない……。だがそうはならず、 むしろ持てば持つほど、もっと必要になった。このことは、20年前には必要としていなかったもの(コンピュータ、携帯電話)と、いまどうしても必要なもの(超軽量ノートパソコン、一年おきに最新型の携帯電話、 モバイル端末の超高速ネット接続)を比べるだけで、すぐに納得がいくだろう。満たされていないニーズは、富裕層のほうが貧困層より少ないはずだが、実際には完全に逆になっている。ケインズは賃金には下方硬直性があると言ったが、まちがいなく消費には下方硬直性がある。消費の梯子は、上るのはたやすいが、下りるのはじつに不快である。満たされた欲望は新たな欲望を生じさせ、結局私たちは欲しがり続けることになる。だから、新しい欲望には注意しなければならない。それは、新たな中毒を意味する。消費は麻薬に似ているからだ。


村井章子 訳

トーマス・セドラチェク 「善と悪の経済学」終章

  象牙の塔では専門用語が氾濫し、異なる分野と相互理解や意思疎通ができなくなっている。これは、個々の分野がそれぞれに空高く舞い上がり、孤立し、共通の大地が空っぽになってしまったからではあるまいか。科学の世界で みられる言葉の混乱は、バベルの塔を建てるときに起きたことと似ているように思えてならない。たしかに、大地にへばりついていたら高みから見下ろすことはできない。だが大地こそ、人間の住むところである。よく言われることだが、おおむね正しいほうが、正確にまちがっているよりよい。
  高度化・専門化の傾向にブレーキをかけ、明確に、わかりやすく、シンプルに語るようにしたら、経済学は他の学問分野ともっと理解し合えるようになるだろう。そして、孤立した領域がお互いを必要としていること、互いに学べばもっとゆたかな実りが得られることに気づくにちがいない。

 

  あまりにゆたかになり強くもなった現代人は、もはや外から限界を押し付けられることはない。ほとんどどんなことも克服し、ずっと好きなようにやってきた。これだけ好き勝手にやっていながら、それほど幸福でないとしたら悲しいことである。

 

  人間の歴史をふり返ってみていま言えるのは、人間は、人生の単純なことを受け入れて楽しむ方向へと進化しなければならない、ということのように思われる。

 

村井章子 訳   

ニコラス・G・カー 「オートメーション・バカ」第1章

  ポイントは、オートメーションは悪いものだということではない。オートメーションと、その先駆者である機械化は、何世紀にもわたって前進してきたのであり、その結果われわれの状況は、全般的に大きく改善されてきた。オートメーションは賢く使えば、われわれを骨の折れる労働から解放し、もっとやりがいと充足感のある試みへと駆り立ててくれる。問題は、オートメーションについて合理的に考えたり、その意味を理解したりするのが 難しいことだ。「もういい」とか「ちょっと待って」とか言うタイミングがいつであるかがわれわれにはわからない。経済的にも感情的にも、カードはオートメーションに有利なように切られている。労働を、人間から機械やコンピュータへと移管することの恩恵は、見出すのも測定するのも簡単だ。企業は資本投資を数多く行い、オートメーションによる恩恵を、国際決済通貨単位で計算できる——労働コストの削減、生産性の向上、処理と反応速度の高速化、利潤の増大。個人の生活においても、コンピュータが時間を節約し、面倒を避けてくれる例を数多く指摘できる。そして労働よりも余暇を、努力よりも快楽さを好む先入観のおかげで、われわれはオートメーションの恩恵を過大評価している。
  損害を明確に指摘するのは難しい。コンピュータが特定の仕事を時代遅れにしていること、それで仕事を失った人々もいることはわかっているが、歴史が示唆するところによれば、およびほとんどの経済学者が予想するところによれば、雇用減少は一時的なものであり、長期的には、生産性を高めるテクノロジーが魅力的な新職業を作り出し、生活水準を引き上げるだろうということだ。個人の損害についてはさらに曖昧だ。努力や没頭の減少や、主体性と自律性の弱体化、スキルの微妙な低下を、どう測定できるというのか?できはしない。それらははっきりとせずつかみどころのない、失くしてしまうまでほとんど気づかれないものであって、またそうなってしまってもなお、喪失を具体的に語るのが困難なたぐいのものである。だが損害は現実だ。どのタスクをコンピュータに手渡し、どれを自分たちの元に置いておくかについて、われわれが行なった選択、または行なわなかった選択は、単なる実際的・経済的な選択ではない。倫理的選択なのだ。われわれの生活の本質を、および世界のなかでのわれわれの居場所を、これらの選択はかたちづくっている。オートメーションはわれわれを、あらゆる問いのなかでも最も重要な問いと直面させる——すなわち、「人間」とは何を意味するのか、という問いだ。

篠儀直子 訳