本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

フランコ・カッサーノ 「南の思想」序章

今日、尊大の罪を犯しているのは、世界には経済発展以外の使命はないと考える人々の方である。それ以外の人々は、自分を売り渡さないときには身を守ろうとするものだ、たとえそれが恐怖から生まれた狂暴な態度によってであっても。とすれば、まず一歩譲らなければならないのは、どちらなのだろうか。どちらがまず、相手の首を絞めるのをやめなければならないのだろうか。どちらがまず、それ以外にも人生のすごしかたがあることを認めなければならないのだろうか。それは手段の多様性と神の数限りない名前を、テクノロジーという名の一神教と取り替えてしまったこの世界のほうである。南の思想は声と道と尊厳の多様性をもって行われる抵抗の中に、経済発展の原始的な目には桎梏、限界、悪徳としか見えないものの中に、その存在の根を下ろしている。それは不動で、ゆっくりとしていて、多様な層をなしている生の様式に対する人間の親しみを守るものでなければならない。なぜならそこではインターネットですべてに繋がっているときよりも豊かな関係を取り結ぶことができるし、科学技術の堂々たる保護はそれに劣らず堂々たるさまざまな宗教による保護に歩を譲るのだ。高速歩行の単色のかわりに生が速度をゆるめるときに初めて感じることのできる多様な色彩を。気の短い「リアル・タイム」のかわりに他者との物理的、文化的な距たりの価値——他者の誇りの不可解さ、他者の理解の困難さ、他者に近づくことで生じるリスクの価値を。

 

ファビオ・ランベッリ 訳

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第1章

  ゆっくりしなければならない。田園を行く古い列車や黒衣をまとった農婦のように。徒歩で進み、世界が魔法の力によって開かれるのを目の当たりにする人のように。なぜなら、歩くとは本のページをめくることなのに、急いでいるときは本の表紙しか目を留めることがないから。ゆっくりしなければならない。これまでにたどってきた道を眺めるために立ち止まることを愛で、メランコリーのように手足の力が疲労によって奪われるのを感じ、進むべき道を行き当たりばったりに決める人々の甘美なアナーキーをうらやまなければならない。
自分の道を行くことを、静寂のなかで一人じっと待つことを、そして時にはポケットのなかに自分の手だけしかないことの愉しみを、学ばなければならない。ゆっくり歩むとは、車で犬を轢かないで、道で出会った犬と遊ぶことであり、木々や曲がり角、電柱などに名前をつけ、ベンチを見つけることであり、水面に浮きあがる泡のように道行くままにあふれ出し、あまりに強すぎれば破裂して空に混じる、そんな想念を自身のうちに持つこと。それは不随意の思考、計画性のない思考、目的と意志の結果ではなく必然的かつ必要な思考、精神と世界との調和からおのずから浮かび上がってくる思考を呼び覚ますことである。

 

  ゆっくり歩むとは、哲学する人みなのことであり、始まりと終わりにより近いところ、世界の大いなる経験がまっとうされるところ、つまりそこにちょうどたどり着いたところだったり、別れを告げようとしているところだったりするところで、別のスピードを生きること。ゆっくり歩むとは、痛くせずに降りること、工業の興奮には溺れずに、すべての感覚に忠実に、横切ってゆく大地を自分のからだで味わうこと。ゆっくり歩む10キロは、人間をさまざまな計画に充ち満ちた孤独に溺れさせる大洋横断航路——消化できない貪欲さ——よりもはるかにいのちにあふれている。一匹の犬や、学校から帰る子供たちやバルコニーから顔を出す人をながめたり、夜更けにトランプで遊ぶ人々を見守っているときのほうが、飛行機で旅行したり、ファックスしたり、インターネットするときより、多くの他者を自身の裡に受け入れている。このゆっくりした思想が唯一の思想であり、もう一つの思想は、ただ機械を回してスピードを上昇させるだけの思想、無限にそれができると思い込んでいる思想である。機械の震えが強くなってきて、だれもその震動をコントロールできなくなってしまったとき、ゆっくりとした思想が速い思想からの避難場所を提供する。ゆっくりとした思想はもっとも古い耐震性の建築物なのだ。

 

ファビオ・ランベッリ 訳  

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第3章

世界大のメディアの作用はある意味で貨幣の作用と似ている。もはや到達できない場所はなく、われわれはみな不可避的に、メディアを通じてのさまざまなコミュニケーション関係によって築かれた世界共同体の構成員になっている。貨幣と商業がローカルな自給自足の消費に基づいた共同体からわれわれを根こぎにしたのと同様に、メディアもわれわれをローカルな利害に基づいた地域主義から根こぎにする。われわれは、非常に遠くにいる人や出来事に近くなると同時に、ごく身近な人や出来事からは遠くなってしまった。この場合にも、場所なき帰属のおかげで昔からの帰属の絆が緩められてしまっている。


市場は人から根を失わせ(ポランニー『大転換』)、競争の危険きわまりない宇宙に投げ込む。われわれは競争という普遍宗教のなかに投げ入れられ、それぞれの文化、習慣、悪徳から根を抜かれ、スターティングブロックに足を乗せ、新しい出発へのコールを待つ。経済学者は、ホモ・クーレンス(走り続ける人間)の理論家であり、健康のためにわれわれは生きている間中、一日中走りつづけなければならないと繰り返す学識に富んだ医師である。われわれの健康は走った分によるのだから、街は暇なときにも走っていてそのことに喜びを感じている悲痛な人々で満ちている。息切れして顔を真っ赤にした人々の宗教、高層ビルの陰で汗をかきながら唱えるこのような朝夕の祈りは、われわれの精神のすべての毛穴をいっぱいにし、別の生活形態もあることさえ頭に思い浮かばなくしてしまう。


「根を失う」という表現(われわれはそれをシモーヌ・ヴェイユ「根を持つこと」に借りている)は、ある一つの現象の恐ろしい側面を表している。その現象は別の視点から見ると、ヨーロッパと西洋の大いなる自慢の種である。自由、がそれである。われわれの文化を貫いている境界への内在的緊張を生みだすのが、この「根を失うこと」である。すべての境界はわれわれを束縛し、すべての根はわれわれを繋ぎ止め、人間としての自由を窒息させる。知的・空間的移動の権利、あたかもわれわれがそれに所属しているかのようにわれわれを繋ぎ止めようとする絆から自由になる可能性、人類に属すること以外のいかなる属性も考慮することなく誰にでもホスピタリティーと尊厳を与えること、この個人の神聖-超越性は、それを産みだした西洋にとってはあまりにも偉大で重要なことなので、その別の側面をなかなか直視することができないのだ。


自由と「根を失うこと」は、自分たちが人間を束縛から解放した同じ一つの衝動から生まれた兄弟であることを発見する。


ファビオ・ランベッリ 訳

フランコ・カッサーノ 「南の思想」第5章

  一人の子どもがお金がなくとも愉しむことのできる富があることを知り、また美が報酬を求めることなくどの街角でも彼を待っているとすれば、その子は永遠に、私有財産を蓄積する閉所恐怖症の世界からは自由になる。

 

「幸福な貧困」とはたぶんただの牧歌に過ぎず、陸が海に出会う、南でも特別な地域でしか体験できないものに過ぎなかったのかもしれない。だが、たしかにある視点から見た場合、その収入の目覚ましい成長にもかかわらず、今日、南はより貧しくなったと断言することもできるのだ。たしかに、かつて南には恐ろしいまでの不正義が、そして南の本来的な性質や宗教に由来するのだと永らく信じ込ませられてきた厚かましい悪弊が、それこそいやというほど存在した。だから他人から押しつけられた貧困にノスタルジーを感じることなどはできない。多くの不正、排除や貧困の現象は、今日、なくなったのではなく、たんに変質しただけである。貧困からあわてふためいた逃走は、「財産の過剰が始まったとたんに消えてしまう自由」もまた、同時に奪ってしまうのだ。
  これは、清貧思想ではない。むしろ、自由の新しい形態がますます大金を要求するようになり、かつてはみなのものであった太陽と海が売春のようなものになり、金を払える者以外はアクセスできないものになるという意識である。海と太陽を小さな区画に区切って売り出すことによって金は増えた。だが、同時にこの自由、自由の根源にあった共通の母、南の人々の幼年時代の思い出の中に残された、みなのものである光に照らされた場所での幸福なそぞろ歩きは消滅した。

 

ファビオ・ランベッリ 訳  

 

 

フランコ・カッサーノ 「南の思想」カッサーノへのインタビュー

  最初の前提として、各地域・各社会が自律的にその発展を考えなければなりません。例えば、南は北が自分の将来である、したがって自分が「まだ北になっていないもの」と考えるのをやめなければなりません。このような自己表象はニュートラルではなく、その反対に、南の服従の結果であって、南が自分で自分自身のことを考える能力の喪失をあらわすのです。南の将来としての北という表象は間違いですが、それにはすくなくとも二つの理由が挙げられます。第一に、われわれの世界を平等な主体のあいだに起きる自由の競争、つまり、だれにでもトップに登ることを可能にする競争という理念によって規定することが、まったく真実に反しているからです。先に進んでいる人はあらゆる手段を使ってその優位を守り、その優位を脅かそうとする人の走行を妨げようとします。例えば、先ほどの話もそうですし、発展途上国や世界の南の国に対する、先進国の保護貿易政策を思い出していただきたいですね。第二に、南の文化的隷属は、何としても拒否すべきだからです。なぜかというと、それぞれの国は、それぞれの伝統と独自の創造的な方法とを基にして、それぞれの特性に適した発展の道を探さなければならないからです。

 

ファビオ・ランベッリ 訳   

フランコ・カッサーノ 「南の思想」カッサーノへのインタビュー

  わたしが説こうとする「遅さ」は、人生は単なる強迫観念になった競争に支配される必要がないことを思い出させてくれます。この強迫観念になった競争のために、先進国の裕福な人々は貧乏人のように、つねにばたばたして急いでいるのです。
  世界の加速化は、必ずしも世界をよくすることではありません。今日、ゆっくり歩むことが可能になっているのは、多くの近代テクノロジーのおかげでもあります。つまり問題は、それらのテクノロジーをこの目的のために使う意志があるかどうか、ということなのです。速度は重要ですが、もっとも速い恋愛はお金で買える愛で、 もっとも速い教育は知識の消化プロセスの時間を無視して生徒に無数の情報を教え込もうとする教育システムだとすればどうでしょう。これは、不安しか教えることができない無用、あるいは有害な作業でしょう。
  思想も広がりを獲得するためには、アクセルを放すことを学ばなければならないのです。「遅さ」を通じてわれわれは、生産プロセスに対する主権を主張できるようになり、われわれ自身が作った仕組みの単なる付属物になってしまうことを拒否することができるのです。
  以前は10時間をかけて作っていたものを今日では1時間だけで作れるようになったのに、なぜ以前と同じ時間、仕事し続けなければならないでしょうか。なぜ労働時間を削減してその代わりに人生充実の時間を増やしてみることができないでしょうか。

 

ファビオ・ランベッリ 訳  

フランコ・カッサーノ「南の思想」カッサーノへのインタビュー

何かを知るためには、専門的なボキャブラリーの限界・境界、科学的言語そのものの境界を乗り越えなければなりません。場合によっては、文学が人文科学よりも強力なかたちで現実について語ることもあります。しかし、かと言って、文学が、何人かが考えているように、知の特権的な手段だということでもありません。わたしは真の知を保証するスーパー言語の存在を信じません。なぜなら、知を生み出す、また知を倍加させるのは、言語と言語の交換、言語から言語への移動だからです。これは、漁師が多くの網を使えばより多くの魚の種類がとれるようなことです。協調組合主義的な自分の専門性への自閉は、知の可能性の深刻な制限だと思います。専門性は必要ですが、専門性の境界を乗り越えることも重要です。

 

ファビオ・ランベッリ 訳  

フランコ・カッサーノ 「南の思想」カッサーノへのインタビュー

西洋は自分がすべての原理主義の正反対だという自己イメージをもっているようですが、これは間違いです。とても深刻な間違いです。じつは西洋もその独特の原理主義をもっているのです。それは、競争や消費や、一人一人の人間を分離させ人々を憤慨させる個人主義を生み出す、市場の原理主義です。この市場の原理主義の批判は主に二つの理由のために重要な課題です。第一に、この批判によって、原理主義のリスクのない文化は存在しないのだから、他の文化を裁くことができるという思い上がりを起こしてはならない、ということを教えてくれます。第二に、自己の原理主義と批判的な距離をおくことによって、西洋が他の文化の理念とその論理をもっと理解できるようになります。

 

ファビオ・ランベッリ 訳  

ベール・ラーゲルクヴィスト 「現代詩集Ⅳ」新潮社より

杖はわれらの手から……

 

杖はわれらの手から落ちるだろう
さすらいの旅も終るのだ
人間の土地は荒れはてて横たわり
もはや何物もそこには起らぬだろう
ひとりの人間も遠くを眺めず
ひとりの若者も目ざめぬだろう
ひとりの巡礼も固い臥床の上で
彼の心の条幅を味わうことはないだろう

 

ここに生きていた若者たちは、去ってしまった
無言で彼らはこの土地から出発していった
——誰ひとり振り返りさえもしなかった

 

星たちはまだ永遠の中で燃えている
なおも無窮の時間の中で
おぼろな天の川の影が
虚空をぬけて歩んで行く
すべては昔の通り——ただわれらがもはやいないだけだ
われらの陣営の火は消えてしまったのだ

 

山室静 訳  

ポール・ラ・クール 「現代詩集Ⅳ」新潮社より

樹木

 

夏じゅう、ぼくは
おまえを見つめていた、木よ
だが、ぼくら双方の沈黙
歌がはじまる前の
深い、あらあらしい抑圧は
ただおまえのためにのみ歌となった
おお、ぼくの通り道の
土に根をはやして
成長する詩人よ
ぼくらはきっと出あうことができるのだ
ぼくの中にあの遠い明るい世界を導く
最初の言葉が生れた時だけ。
あの頃、その言葉は泉であり
岩山や波
一枚の葉、小川の中の一つの石
森の向うでの雷鳴であった。
だが、ぼくはあまりに重くなった——
驚嘆しながら、しずかに
おまえのお伴をして
忘れられた足跡をたどるには。
ぼくの家の
戸口のそばに立ちつくす
やさしい者よ。

 

山室静 訳  

フアン・ラモン・ヒメネス 「現代詩集Ⅳ」新潮社より

英知よ  ぼくに授けてくれ

 

英知よ  ぼくに授けてくれ
もろもろの事物の正確な名前を
          ぼくの言葉が
ぼくの魂によって新たに造られた
事物そのものであるように
それらを知らぬすべての者が ぼくを越えて
もろもろの事物に到達しうるように
それらを忘れていたすべての者が ぼくを越えて
もろもろの事物に到達しうるように
それらを愛しているすべての者が ぼくを越えて
もろもろの事物に到達しうるように
英知よ  ぼくに授けてくれ
もろもろの事物の きみの
かれの  ぼくの  正確な名前を

 

鼓直 訳      

フアン・ラモン・ヒメネス 「現代詩集Ⅳ」 新潮社より

郷愁

 

心の海はのどかに脈打つ
果しのない凪の中で
星の背がきらめいている
忘却と慰籍の空の下で

 

大きな魔法の洞穴に
こもっているようだ
世間の人のために着飾った
春がいま出ていった洞穴に

 

その春が残した非在の中の
何という静けさ  孤独な悦び
外で笑いさざめく緑の祭りが
こころよいこの深い穴の中の

 

鼓直 訳