本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

カヴァフィス 「カヴァフィス全詩集 第二版」

ろうそく


これから来る日は われらの前に
燃えさかるろうそく。生き生きと暖かく
金色に輝くろうそくの列。

 

過ぎた日 過去に置き去った日は
燃え尽きたろうそくの陰々滅々の列。
いちばん手前のは まだくすぶっているが
曲がって 溶けて もう冷たい

 

見たくない、過ぎた日のろうそく。恰好も悲しい。
もとの光を思えば いっそう悲しい。
私は前を見る、私の燃えて輝くろうそくを。

 

ふりむきたくない。見たくない。怖い。
黒い列がなんと速く伸び、
なんと早く また一本 死んだろうそくが仲間に加わることか。

 

中井久夫 訳    

ホセ・マルティ 「黄金時代」

自由というのは、すべての人が誠実に、嘘偽りなく考え、話す時に持つことができる権利です。ラテンアメリカでは、誠実であることも、考えることも、話すことも出来ないで来ました。考えていることを秘密にしたり、それを、思い切って言おうとしなかったりする人は、誠実な人ではありません。政府が良いものとなるように動かないで、悪い政府に服従する人は誠実な人ではありません。不当な法律に、何も考えることなく服従し、手ひどく人を扱うような人々が、祖国に土足で踏み込むのを許す人は、誠実な人ではありません。子供は考えることが出来るようになったならば、見るものすべてを考えなければならないし、誠実に生きることが出来ないすべての人のために、苦しまなければなりません。そして、すべての人が誠実になれるように働かなければなりません。自分自身が誠実な人にならなければならないのです。

 

加藤恵子 訳
*「黄金時代」→1889年ニューヨークで発刊されたスペイン語圏の子供のための月刊誌  

レイチェル・カーソン 「沈黙の春」

 私たちは、いつもはっきりと目にうつる直接の原因だけに気を奪われて、ほかのことは無視するのがふつうだ。明らかな形をとってあらわれてこないかぎり、いくらあぶないと言われても身に感じない。

 

青木簗一訳  

E.B.ホワイト (レイチェル・カーソン「沈黙の春」より)

私は、人類にたいした希望を寄せてい
ない。人間は、かしこすぎるあまり、
かえってみずから禍いをまねく。自然
を相手にするときには、自然をねじふ
せて自分の言いなりにしようとする。
私たちみんなの住んでいるこの惑星に
もう少し愛情をもち、疑心暗鬼や暴君
の心を捨て去れば、人類も生きながら
える希望があるのに。

 

青木簗一 訳   

ナンシー・ウッド 「今日は死ぬのにもってこいの日」

たくさんの冬を
わたしは生きてきた、
終わりない夏と戯れ、疲れきった大地を
最初の雪が降ってきて覆いつくした
時のそもそもの始まりから。
たくさんの冬
わたしは山々の頂きに水を捕らえて放さなかった、
月と太陽がみごとな円環を創り出した大地の始まり以来
まだ冷めやらぬ山々の頂きに。
たくさんの冬
わたしは星たちを至るところに吹き飛ばした、
それぞれの星が落ちてゆく先を
冬の陽の路に沿って
海へと川が流れてゆくように。
たくさんの冬
木々はわたしとともに寝た、
獣たちはわたしの胸の上を歩きまわり
鳥たちも夜寒の辛さを和らげようと
わたしの火のそばに近づいてきた。

大地だけが生き続ける。
自分の人生がわからなくなったり
自分がなぜ人に聞き入れられないのか、わからなくなったとき
わたしが話しかけるのはいつも大地だ。
すると大地は答えてくれる、
かつてわたしの先祖たちが
悲しみの涙で太陽が見えなくなったとき
彼らに歌ってやったのと同じ歌で。
大地は歌う、歓喜の歌を。
大地は歌う、称賛の歌を。
大地は身を起こして、わたしを嗤う、
春が冬に始まり、死が誕生によって始まることを
わたしがうっかり忘れるたびに

金関寿男 訳

ナンシー・ウッド 「今日は死ぬのにもってこいの日」

この手で翼の折れた鳥を
わたしは運んだものだ。
この手で、太陽の下
わたしはわたしの子どもたちに触れたものだ。
この手で、わたしは生きた土の家を建てた。
この手で、育ちゆくトウモロコシ畑を耕してきた。
この手で、生きる術を学んだのと同じくらい、殺す術も学んだ。
この手は、わたしの精神の道具だ。
この手は、わたしの怒りの戦士だ。
この手は、わたしの自我の限界だ。
この手は年老い
わたしが昔知っていた世界に触れるべく伸ばされたが
触れることができたのは、見知らぬ壁ばかりだった。

 

たぶん、君自身になるってことは
泣き叫ぶ嵐の中に、君独りいるってことだ、
そのとき君が求めるすべては
人の焚き火に手をかざすことだけ。

 

金関寿男 訳    

 

 

ナンシー・ウッド 「今日は死ぬのにもってこいの日」

  私たちには、自分を偽ることなんてとてもできやしない。お金と所有が人を幸せにするなんてことを、信じるふりをして世を渡ることなど、どうしてできるだろう?口を開けば白人は、わたしたちにはもっと物が必要だと言う。しかし物を持てば、わたしたちはその代償として、自分の魂を売らねばならない。彼らはそうは言わない。けれどわたしたちは、それが本当だと知っている。なぜならそれは、今までたくさんの部族に起こったことだからだ。彼らは今、どこにいるんだろう?もう一度、インディアンに戻ろうとしているだろうか?けれど、それはできない相談だ。だって彼らには土地がない。ルーツがない。だからわたしたちは、死にもの狂いで戦うのだ。 

 

たとえそれが、一握りの土くれであっても
良いものは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえそれが、野原の一本の木であっても
信じるものは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえそれが、地平の果てにあっても
君がなすべきことは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえ手放すほうがやさしいときでも
人生は、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえわたしが、君から去っていったあとでも
わたしの手をしっかりつかんで離してはいけない。

 

金関寿男 訳  

五木寛之 「大河の一滴」

  考えてみると十九世紀来、われわれはものすごく傲慢だった。その傲慢ななかで、ぼくたちは大きな過ちを犯しつづけてきたのではないでしょうか。ぼくたちは自分たちが地球上のことを全部わかるような気持ちになっていた。でも、本当にわかっていることはごくわずかである。大宇宙の秘密のほんとに一部だけをちらっとかいま見ただけかもしれない。にもかかわらず、私たちが犯した過ちは、ほとんど大部分、九十九パーセントまで見えた、と思ってしまったところにあるのではないか。   

 

五木寛之 「大河の一滴」

  人間はただ肉体として生きるだけでなく記憶のなかにも、そして人間関係のなかにも生きている。その人間の死が完成するまでにはやっぱり十ヶ月や一年ぐらいかかるのじゃないか。これがぼくのかたくなな考えです。
  人間的な死ということを考えないで、科学的な生理的な死ということだけで死者というものを取り扱う、それはおそらくいろんな犯罪とどこか根のところで結びあってくるのではなかろうか。人間の命を軽く扱うという点において、そのことを私は考えざるをえません。
  人間が死んでゆくのだ、死んだだけではなくて、死んでゆくのだ、というふうにぼくは思います。人間の自発的呼吸が止まるなどいくつかの条件を満たすと脳死と判定されますが、脳死というのは未完の死ではないか。死が完成するために私たちは誕生と同じように、十ヶ月や一年ぐらいの時間を必要としているのかもしれない。私たちはそのあいだに静かに、死んでいった人たちを死者として送りだす。そして死を完成させ、自分の心のなかに死の固定というか、準備と落ち着きとをもってその人をなつかしく思い返すことができる時がくる。

 

トルストイ 「戦争と平和」第1部

〈生きている者と死んだ者をへだてている一線を思わせるこの線を一歩越えたら——不可思議と、苦悩と、死だ。そして、その向こうには何があるんだ?向こうにはだれがいるんだ?向こうの、この野原や、木や、太陽に照らされている屋根のかなたには?だれも知らないし、知りたがっている。この一線を越えるのは恐ろしいし、越えてもみたい。そして、みんなわかってるんだ——遅かれ早かれ、この線を越えて、あちらに、線の向こう側に何があるかを知ることになる。それはちょうど、あちらに、死の向こう側に何があるかを知ることが避けられないのと同じだ、ということを。ところが、自分自身は強くて、健康で、陽気で、しかも、いら立っていて、そして、こんなに健康で、いらいらと活気にみちた人間たちに囲まれている〉。敵を目のあたりにしている者はだれでも、たとえこう考えないにしても、こんなふうに感じる。そして、この感覚が、こういう時に生じるありとあらゆるものに、一種とくべつな印象のきらめきと、心たのしいような鋭さを与えるのだ。

 

藤沼貴 訳   

トルストイ 「戦争と平和」第1部

・・・ナポレオンの顔をまともに見つめながら、アンドレイは偉大さというものの小ささについて、だれも意義のわからない生というものの小ささについて、そしてまた、生きているものはだれひとりその意味がわからず、説明もできない死というものの、生以上の小ささについて、考えていた。

 

藤沼貴 訳  

トルストイ 「戦争と平和」第3部

  人間はだれでも自分の個人的な目的をとげるために、自由を行使して、自分のために生きており、自分はこれこれの行為をしたり、あるいは、しなかったりすることができると、心底から感じている。ところが、その人間がそれをするとたちまち、時間の流れのある一定の時点で行われたその行為は取り返せないものとなり、歴史の所有になる。そして、歴史の中で、それは自由ではなくて、あらかじめ定められた意味を持つのだ。
  だれでも人間の中には二面の生がある。その利害が抽象的であればあるほど、自由が多くなる個人的な生と、人間があらかじめ定められた法則を必然的に果たしている、不可抗力的な、群衆的な生である。
  人間は意識的には自分のために生きている。しかし、歴史的、全人類的な目的の達成のための無意識的な道具の役をしているのだ。行われてしまった行為は取り返せず、人間の行為は時間の中で他の人間たちの無数の行為と結びついて、歴史的な意味を得る。ある人間が社会の上下関係で高い位置にあればあるほど、多くの人間に結びついていればいるほど、その人間は他の人間たちに対して大きな権力を持つことになり、その一挙一動があらかじめ決定づけられていること、必然的なものであることが、ますますはっきりしてくる。
「皇帝の心は神のみ手にあり」
  皇帝は——歴史の奴隷に他ならない。
  歴史、つまり、人類の無意識的、全体的、群衆的な生は、皇帝たちの生活の一瞬一瞬をすべて、自分の目的のための手段として、自分のために利用する。

 

エピローグ
歴史が対象としているのは、人間の意志自体ではなく、意志についての我々の心象である。

 

藤沼貴      

トルストイ 「戦争と平和」第4部

  捕虜になって、収容所で、ピエールは頭ではなく、自分の全存在によって、生命によって知った——人間は幸福のために創られているのだ、幸福は自分自身のなかに、自然な人間的欲求を満足させることのなかにあるのだ、そして、すべての不幸は不足ではなく、過剰から生じるのだ、と。しかし、今この行軍の三週間の間に、彼はさらに新しい、心を慰めてくれる真理を知った——彼はこの世には何ひとつ恐ろしいものはないことを知ったのだ。彼は人間が幸福で完全に自由な状態がない以上、不幸で不自由な状態もないということを知った。彼は苦しみの限界と自由の限界があること、そして、その限界は非常に近いことを知った。バラの褥でたった一枚の花びらがまくれ上がっているのを苦にしている人間は、自分が今、むき出しの湿った地面に眠り、体の片側を冷やし、片側を温めながら、苦しい思いをしているのと全く同じように苦しんでいるのだということ・・・

 

藤沼貴 訳  

トルストイ 「戦争と平和」あとがき

・・・我々の最大の自由と最大の不自由の条件を観察してみると、我々の行為が抽象的であればあるほど、したがって、他人の行為との結び付きが少なければ少ないほど、それは自由であり、逆に、我々の行為が他人と結び付いていればいるほど、不自由だということを認めずにはいられない。
  もっとも強く、切り離せない、重苦しい、不断の他人との結び付きは、他人に対する権力と呼ばれるものに他ならず、それは真の意味では、他人にもっとも多く束縛されることに他ならない。

 

藤沼貴 訳