本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ナンシー・ウッド 「今日は死ぬのにもってこいの日」

  私たちには、自分を偽ることなんてとてもできやしない。お金と所有が人を幸せにするなんてことを、信じるふりをして世を渡ることなど、どうしてできるだろう?口を開けば白人は、わたしたちにはもっと物が必要だと言う。しかし物を持てば、わたしたちはその代償として、自分の魂を売らねばならない。彼らはそうは言わない。けれどわたしたちは、それが本当だと知っている。なぜならそれは、今までたくさんの部族に起こったことだからだ。彼らは今、どこにいるんだろう?もう一度、インディアンに戻ろうとしているだろうか?けれど、それはできない相談だ。だって彼らには土地がない。ルーツがない。だからわたしたちは、死にもの狂いで戦うのだ。 

 

たとえそれが、一握りの土くれであっても
良いものは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえそれが、野原の一本の木であっても
信じるものは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえそれが、地平の果てにあっても
君がなすべきことは、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえ手放すほうがやさしいときでも
人生は、しっかりつかんで離してはいけない。
たとえわたしが、君から去っていったあとでも
わたしの手をしっかりつかんで離してはいけない。

 

金関寿男 訳  

五木寛之 「大河の一滴」

  考えてみると十九世紀来、われわれはものすごく傲慢だった。その傲慢ななかで、ぼくたちは大きな過ちを犯しつづけてきたのではないでしょうか。ぼくたちは自分たちが地球上のことを全部わかるような気持ちになっていた。でも、本当にわかっていることはごくわずかである。大宇宙の秘密のほんとに一部だけをちらっとかいま見ただけかもしれない。にもかかわらず、私たちが犯した過ちは、ほとんど大部分、九十九パーセントまで見えた、と思ってしまったところにあるのではないか。   

 

五木寛之 「大河の一滴」

  人間はただ肉体として生きるだけでなく記憶のなかにも、そして人間関係のなかにも生きている。その人間の死が完成するまでにはやっぱり十ヶ月や一年ぐらいかかるのじゃないか。これがぼくのかたくなな考えです。
  人間的な死ということを考えないで、科学的な生理的な死ということだけで死者というものを取り扱う、それはおそらくいろんな犯罪とどこか根のところで結びあってくるのではなかろうか。人間の命を軽く扱うという点において、そのことを私は考えざるをえません。
  人間が死んでゆくのだ、死んだだけではなくて、死んでゆくのだ、というふうにぼくは思います。人間の自発的呼吸が止まるなどいくつかの条件を満たすと脳死と判定されますが、脳死というのは未完の死ではないか。死が完成するために私たちは誕生と同じように、十ヶ月や一年ぐらいの時間を必要としているのかもしれない。私たちはそのあいだに静かに、死んでいった人たちを死者として送りだす。そして死を完成させ、自分の心のなかに死の固定というか、準備と落ち着きとをもってその人をなつかしく思い返すことができる時がくる。

 

トルストイ 「戦争と平和」第1部

〈生きている者と死んだ者をへだてている一線を思わせるこの線を一歩越えたら——不可思議と、苦悩と、死だ。そして、その向こうには何があるんだ?向こうにはだれがいるんだ?向こうの、この野原や、木や、太陽に照らされている屋根のかなたには?だれも知らないし、知りたがっている。この一線を越えるのは恐ろしいし、越えてもみたい。そして、みんなわかってるんだ——遅かれ早かれ、この線を越えて、あちらに、線の向こう側に何があるかを知ることになる。それはちょうど、あちらに、死の向こう側に何があるかを知ることが避けられないのと同じだ、ということを。ところが、自分自身は強くて、健康で、陽気で、しかも、いら立っていて、そして、こんなに健康で、いらいらと活気にみちた人間たちに囲まれている〉。敵を目のあたりにしている者はだれでも、たとえこう考えないにしても、こんなふうに感じる。そして、この感覚が、こういう時に生じるありとあらゆるものに、一種とくべつな印象のきらめきと、心たのしいような鋭さを与えるのだ。

 

藤沼貴 訳   

トルストイ 「戦争と平和」第1部

・・・ナポレオンの顔をまともに見つめながら、アンドレイは偉大さというものの小ささについて、だれも意義のわからない生というものの小ささについて、そしてまた、生きているものはだれひとりその意味がわからず、説明もできない死というものの、生以上の小ささについて、考えていた。

 

藤沼貴 訳  

トルストイ 「戦争と平和」第3部

  人間はだれでも自分の個人的な目的をとげるために、自由を行使して、自分のために生きており、自分はこれこれの行為をしたり、あるいは、しなかったりすることができると、心底から感じている。ところが、その人間がそれをするとたちまち、時間の流れのある一定の時点で行われたその行為は取り返せないものとなり、歴史の所有になる。そして、歴史の中で、それは自由ではなくて、あらかじめ定められた意味を持つのだ。
  だれでも人間の中には二面の生がある。その利害が抽象的であればあるほど、自由が多くなる個人的な生と、人間があらかじめ定められた法則を必然的に果たしている、不可抗力的な、群衆的な生である。
  人間は意識的には自分のために生きている。しかし、歴史的、全人類的な目的の達成のための無意識的な道具の役をしているのだ。行われてしまった行為は取り返せず、人間の行為は時間の中で他の人間たちの無数の行為と結びついて、歴史的な意味を得る。ある人間が社会の上下関係で高い位置にあればあるほど、多くの人間に結びついていればいるほど、その人間は他の人間たちに対して大きな権力を持つことになり、その一挙一動があらかじめ決定づけられていること、必然的なものであることが、ますますはっきりしてくる。
「皇帝の心は神のみ手にあり」
  皇帝は——歴史の奴隷に他ならない。
  歴史、つまり、人類の無意識的、全体的、群衆的な生は、皇帝たちの生活の一瞬一瞬をすべて、自分の目的のための手段として、自分のために利用する。

 

エピローグ
歴史が対象としているのは、人間の意志自体ではなく、意志についての我々の心象である。

 

藤沼貴      

トルストイ 「戦争と平和」第4部

  捕虜になって、収容所で、ピエールは頭ではなく、自分の全存在によって、生命によって知った——人間は幸福のために創られているのだ、幸福は自分自身のなかに、自然な人間的欲求を満足させることのなかにあるのだ、そして、すべての不幸は不足ではなく、過剰から生じるのだ、と。しかし、今この行軍の三週間の間に、彼はさらに新しい、心を慰めてくれる真理を知った——彼はこの世には何ひとつ恐ろしいものはないことを知ったのだ。彼は人間が幸福で完全に自由な状態がない以上、不幸で不自由な状態もないということを知った。彼は苦しみの限界と自由の限界があること、そして、その限界は非常に近いことを知った。バラの褥でたった一枚の花びらがまくれ上がっているのを苦にしている人間は、自分が今、むき出しの湿った地面に眠り、体の片側を冷やし、片側を温めながら、苦しい思いをしているのと全く同じように苦しんでいるのだということ・・・

 

藤沼貴 訳  

トルストイ 「戦争と平和」あとがき

・・・我々の最大の自由と最大の不自由の条件を観察してみると、我々の行為が抽象的であればあるほど、したがって、他人の行為との結び付きが少なければ少ないほど、それは自由であり、逆に、我々の行為が他人と結び付いていればいるほど、不自由だということを認めずにはいられない。
  もっとも強く、切り離せない、重苦しい、不断の他人との結び付きは、他人に対する権力と呼ばれるものに他ならず、それは真の意味では、他人にもっとも多く束縛されることに他ならない。

 

藤沼貴 訳  

L・ヴァン・デル・ポスト 「アフリカの黒い瞳」

どうもわれわれは時間の意味を誤用し、完全に誤解していると思うのです。われわれのヨーロッパ的時間概念は浅薄で未熟であり、時間の充全の本性を無視し、それに対して無知であり、われわれのトラブルの若干は直接この無知に起因しているように思われます。ヨーロッパ人の大半にとって時間というものは、ただ〈いつ〉であるにすぎず、時計のカチカチいう音によって計測される直進する流れであって、さながら時間は水車の上を流れる水のように流れるもので、完全にわれわれ人間の自由になる尺度であって、この尺度に従ってわれわれは約束の日を決めたり仕事の予約を守ったりする。あまりにもこの直進運動にからめとられているために、われわれは、ちょっと立ち止まって、時間というものには内容も本性もあるのかもしれず、時間独自の特有の意味を備えていて、そのため時間は、ただの〈いつ〉だけではなく、〈なに〉でもあり、ひょっとすると、ずっと重要なことには、〈いかに〉でもあり、また〈永遠に至る道〉でもあることを考えようともしない。ですから、このように誤解された時間の内的パターンのどこかに組み込まれて、生命自体の巨匠的建築家〔造物主〕の青写真が存在しており、これは存在の究極の意匠を描いた地図であって、それに従ってわれわれの生存が体をなす時間の造作への人間のユニークなかかわりを不断に伝え続けているのだ、とわたしは考えたい。

 

由良君美 佐藤正幸 訳    

L・ヴァン・デル・ポスト 「アフリカの黒い瞳」

わたしたちは人間の出来事のなかの生得の生ける有機的な時間を活用しようとしないのですから、せっかくの宝も絶えまなくもちぐされとなる状態なのです。わたしたちはできもしないのに性急な解決を強行しようとし、明日にならねば生まれてこぬものを、今日産めと命令しようとする。評議や決定において、時間の道理に叶った役割を無視したがために生じた失敗の顕著な事例は世界中に満ち満ちております。十ヶ月かけねばならないところを十週間で良質かつ優秀な仔牛をつくろうとしたりして、その過程で起るのは、はてしない流産だけなのです。

 

ところで〈時間〉にはことのほか大きな現実的重要性を持つ別の意味もあります。と申しますのは、〈時間〉とは類のない精神の道程だからなのです。時間は延々と続く道であり、そこから太陽が朝ごとに昇る道であるばかりでなく、何年も前の百万もの光を打ち負かしたひとつの星の輝きが、ひっそり閑とした深夜にはるばる旅してきた疲れ切った旅人の前に現われる道でもあるのです。時間は沙漠の道であり、人間の悩む隊商に仮象の意味の告知が訪れ、見知らぬ者のように、人間の手をゆらめく焚火であたためさせてやろうとして訪れる沙漠の道でもあるのです。時間は大平原でもあり、精神にとっては無意識なものが、意識のなかに、旅路の果てに入り込んでくるところでもあります。何にもまして時間はリズムであって、これなしには人間の心に音楽はありません。時間は生き、全体であらんとするための精神の意志なのです。これは神秘主義ではありません。人間の意識が生命という絶えざる秘儀にぶつかり、通り過ぎるときに、使わざるを得ないような言語なのです。それはまさしく純然と〈神秘的〉なものなのです。なぜなら、生命とはその核心においてまったく神秘そのものであり、したがって、本然の信念であり依拠の問題でもあるからです。神秘を根本的なところで認めるのでなければ、わたしたちの意識は、実在の生動する相応の相から離れてしまい、極端に走り、その要求は尊大傲慢に走ってしまうことにもなるのです。驚異の感覚こそ、わたしたちには不可欠なのです。と申しますのも、それこそ、わたしたちの全体性の一部であって、わたしたちを謙遜にしてくれ、わたしたちの精神をあるべき位置に保ってくれるものだからです。過去数世紀の間にわたしたちはあまりにも一方的に科学に走り過ぎてしまいました。その結果生じたはなはだ有害な副産物の一つは、人間における生命の神秘の意味が除外され、わたしたちの意識的知覚の範囲外にあるあらゆる感情を軽蔑する傾向が生じたことです。

  

由良君美 佐藤正幸 訳

L・ヴァン・デル・ポスト 「アフリカの黒い瞳」

  わたしがこれまで会ったなかで、最も純朴かつ賢明なアフリカの年老いたハンターが、かつてわたしに話してくれたことがございました。「アフリカの白人と黒人との違いは、白人は『所持しており』、黒人は『存在している』ところにあるのだ」。一言で言えばここに今回の騒動の第一原因がまずあるのです。それは先程言いましたように、アフリカだけでなく、世界中至る所にあるのです。それは何かと申しますと、人は「所持する」こと以前に「存在している」のだということが少しもわかってはいないことなのです。「所持すること」は「存在すること」の代替物ではありません。

*今回の騒動=マウマウ運動

 

由良君美 佐藤正幸 訳    

ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 「ビッグデータの正体」第1章

  人間の社会は、これまで何千年にもわたり人間の行動を解明し、おかしなことをしないように常に目を光らせてきた。しかし、コンピュータのアルゴリズムは何をしでかすかわからない。コンピュータ時代に入って当局者は、プライバシー侵害の脅威を感じ取り、個人情報保護のための膨大な規則を築き上げた。ところがビッグデータの時代になると、そんな規則は防御線として何の役にも立たなくなる。すでに人々はネット上で積極的に情報共有している。だいいち、今どきのオンラインサービスでは、共有機能がセキュリティ上の脅威どころか、客寄せの目玉になっているほどだ。

 

  これから我々個人にとって怖いのは「プライバシー」よりも「確率」となる。心臓発作を起こす(=医療保険が上がる)とか、住宅ローンの返済が焦げ付く(=今後の融資を渋られる)とか、罪を犯す(=逮捕される)といった可能性も、アルゴリズムが予測する。となれば、「人間の神聖なる自由意志」か、はたまた「データによる独裁」かという、倫理問題にまで発展する。たとえ統計によるご託宣があったとしても、個人の意志はビッグデータに打ち勝つことができるのか。印刷機が出現したからこそ、表現の自由を保障する法律が生まれた。それ以前は保護すべき表現はほとんどなかった。おそらくビッグデータの時代には、個人の尊厳を守る新たなルールが必要になる。

 

斎藤栄一郎 訳    

ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 「ビッグデータの正体」第2章

  あるコミュニティ内で多くの接点を持つ人がいなくなると、残った人々の交流は低下するものの、交流自体が止まることはない。一方、あるコミュニティの外部に接点を持つ人がいなくなると、残った人々はまるでコミュニティが崩壊してしまったかのように、突如として求心力を失う。
  注目に値する話で、まったく予期していなかった結果だ。ある集団内の交友関係を盛り上げているのは、その集団内に親友の多い人だろうと思われがちだが、実は、集団外部の人々とつながりを持つ人間のほうが盛り上げ役になっていたのだ。つまり、集団や社会の中では、多様性がいかに大切であるかを物語っている。
アルバート=ラズロ・バラバシによる分析結果

 

斎藤栄一郎 訳    

ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 「ビッグデータの正体」第4章

  ビッグデータの時代が成熟すれば、相関分析による新たな洞察力が生まれ、予測の効果が高まる。過去には見えなかったつながりが見えはじめ、どれほど努力しても把握しきれなかった技術や社会の複雑な力学が把握できるようになる。何より重要なのは、相関を使って「理由」よりも「答え」を問うようになれば、世の中を理解する一助となる点だ。

 

「因果関係」がお払い箱になるわけではないが、知の源泉としての主役の座は追われることになる。かたやビッグデータは、非因果性の分析の追い風となっており、因果分析に取って代わる場面も増えている。

 

斎藤栄一郎 訳    

ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 「ビッグデータの正体」第8章

  これまでのようにプロファイリングを実施するにせよ、差別的な側面をなくし、もっと高度に、個人単位で実行できるようになる。それがビッグデータに期待できるメリットだ。そう言われると、あくまで良からぬ行為の防止が狙いなら、受け入れてもよさそうな気がする。しかし、まだ起こってもいない行為の責任を取らせたり、制裁を加えたりする道具にビッグデータ予測が使われるとすれば、やはり危険このうえない。
  個人の性格や傾向を基に罰するという考え方には、強い嫌悪感を覚える。将来、何かしでかしそうというだけで人を指弾するのは、正義を根底から覆すものだ。責めを負わせる以上、その原因となる行為が先に発生していなければならない。良からぬことを想像するだけなら違法ではない。行為に及んで初めて法に触れるのだ。個人が選択・実行した行為に対して、個人の責任が問われる。それが我々の社会の基本ではないか。
  ビッグデータ予測が完璧で、アルゴリズムが我々の未来を寸分違わずはっきりと見通せるなら、我々の行動にはもはや選択の余地など存在しないことにならないか。完璧な予測が可能なら、人間の意思は否定され、自由に人生を生きることもできない。皮肉なことだが、我々に選択の余地がないとなれば、何ら責任を問われることもない。 

 

  そのようなシステムがあれば、社会は安全になったり、効率化したりするかもしれないが、人間が人間たる所以はもろくも崩れ去る。自ら行動を選択し、その責任を自ら負う。それが人間を人間たらしめている根幹ではないか。ビッグデータは、社会での人間の選択の集団主義化をもたらし、自由意志を断念させる道具になってしまう。
  言うまでもなく、ビッグデータには数々のメリットがある。人間性抹消の兵器になってしまうのは、欠陥があるからだ。それもビッグデータ自体の欠陥ではなく、ビッグデータによる予測結果の使い方の欠陥である。予測された行為について実行前に責任を負わせることからして大問題だが、とりわけ、相関関係に基づくビッグデータ予測を使っていながら、個人の責任については因果的な判断を下している。問題の核心はここにある。

 

斎藤栄一郎 訳