本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 「ビッグデータの正体」第9章 第10章

原子力からバイオまで多くの分野に言えることだが、人類は最初にツールを作り出し、やがてそれが我々に害をもたらしかねないことに気付く。その後、ようやく安全確保の仕組みづくりに乗り出す。ビッグデータも、絶対的な解決策のない難題をいずれ我々に突きつけることになる。世の中をどう統制するのかという永遠の課題だ。


ビッグデータは、意思決定、運命、正義といった要素まで一からの見直しを我々に突きつける。さまざまな根拠を背景に成り立っているはずの世界観が、圧倒的な相関関係によって脅かされている。知識を身に付けることとは、かつては過去を知ることだった。ところが、未来を予測する能力に取って代わられようとしている。

 

斎藤栄一郎 訳  

中野剛志 「グローバリズムが世界を滅ぼす」より

  ちなみに、新自由主義を採用すると、不思議なことに政権が長続きする。たとえばサッチャー政権、レーガン政権、小泉政権です。格差を生み、弱者を増やす新自由主義の政権は、一見、国民の支持を得られずに短命で終わるように思われます。しかし、妙なことに長期政権が多い。
  なぜかといえば、なすに任せよの新自由主義を掲げて選挙に勝ち、政権の座に就いたので、政策の結果がどうなろうと責任を負わなくていいからです。したがって、いくら格差の拡大を責め立てても、政権側は「自己責任ですから」と言い逃れる。あるいは、「市場原理ですから。政府は何もできないので、仕方がないのです」と弁明する。選挙民としては政権を批判する口実を失ってしまうのです。  

エマニュエル・トッド 「グローバリズムが世界を滅ぼす」より

  自由貿易が生み出す根本の問題は、経済活動の実践の仕方である前に、一つのイデオロギーです。どういうことかというと、企業が、自分たちは国内市場のために生産するのではなく、外部市場のために生産するのだという考えに傾いていくのです。
  こうした状況では、輸出貿易をめざす国の企業は、その当然の傾向として、また正当な傾向とさえいえると思いますが、だんだんと賃金を純粋なコストと見なすようになります。賃金は内需に貢献する要素であることをやめてしまいます。それは純粋なコストとなり、すると企業は、賃金コストの削減に入っていきます。  

リルケ 「リルケ全集第4巻」

夜の散歩


何ものも比較することはできない。なぜならそれ自身とだけで
全体でないものとは何だろう、そして発言され得るものとは。
私たちは何ものをも名づけないで ただ耐えていれば
了解し合うことができる。そこでは輝きが
そしてあそこで眼差しが、おそらく私たちにふれたのだ、
あたかもそのなかに 私たちの生命あるものが
生きていたかのように。反抗する者には
世界は与えられない。多くを理解しすぎる者には
永遠は通りすぎてゆく。ときには
このような大いなる夜々のなかで 私たちは
危険の外にいるかのようだ、同じかろやかな部分になり
星々に配分されて。なんと星々が迫ってくることか。


小松原千里 内藤道雄 塚越敏 小林栄三郎 訳  

リルケ 「リルケ全集第3巻」

別れを告げよう、ふたつの星のように


別れを告げよう、ふたつの星のように。
距離で自らの存在を確かめ もっとも遠いもので
自らを認識する、そういう近さでもある
あの圧倒的な夜の空間に分け隔てられた ふたつの星のように。


小林栄三郎 訳  

リルケ 「リルケ全集第3巻」

海の歌
          カプリ、ピッコラ・マリナ


海から吹いてくる太古の風、
夜の海風、——
       おまえは 誰のところにも吹いてくるのではない、
誰か目覚めているものがあるならば、
どのように おまえに耐えうるものかを
知らねばならぬだろう。
       海から吹いてくる太古の風、
それは ただ根源の岩石のために
吹いてくるようだ、
ただただ空間ばかりを
遠くのほうからひき寄せながら……

 

おお、おまえをどう感じているのだろう、
うえの高みで 月の光を浴びて立っている
一本の、実を結ぶ無花果の樹は。

 

塚越敏 訳  

リルケ 「リルケ全集第3巻」

錬金術師 


奇妙な笑いをうかべ 実験室の彼は
やや落ちついて煙をあげているフラスコを押しやった。
いとも高貴なものが フラスコのなかに生ずるには
なお なにを必要としたか いま 彼は知った。

 

彼は時間を必要としたのだ。数千年を
おのれと 煮えたつフラスコとのために。
脳髄のなかには天体の星座が 拡がった、
意識のなかには すくなくとも 海が。

 

彼は 自分が望んでいた途方もないものを
この夜 放棄したのであった。それは
神のもとに それのもとの規準に戻った。

 

だが 彼は 、飲んだくれのように口ごもり、
秘密の棚に寝そべって、金の小片を
切に所望して、彼は それを所有した。

 

塚越敏 訳  

リルケ 「リルケ全集第3巻」

詩人


時間よ、おまえは 私から遠のいていく。
おまえの羽ばたきが 私に傷を負わすのだ。
いまは孤独、私の口を 私の夜を
そして私の昼を 私はどうしたらいいのか?

 

私には 恋人もいなければ 家もない
私の生きていく場所もない。
すべての事物に 私が着手すると、
事物は 豊かになって 私を手放してしまうのだ。

 

塚越敏  

リルケ 「リルケ全集第2巻」

厳粛な時

 

いまこの世のどこかで泣いているひと
        わけもなくこの世で泣いているひとは
        わたしのために泣いている。

 

いまこの夜のどこかで笑っているひと
        わけもなくこの夜に笑っているひとは
        わたしを笑っている。

 

いまこの世のどこかであるいているひと
        わけもなくこの世であるいているひとは
        わたしにむかってあるいている。

 

いまこの世のどこかで死んでゆくひと
        わけもなくこの世で死んでゆくひとは
        じっとわたしをみつめている。

 

上村弘雄 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  私はついにパリ途上の、最初の短い海辺の上空にただひとりとなった。海面はおだやかである。水面の油のようになめらかな輝きの下には、少しもうごきらしいものは見えない。コネチカット川の岸まではわずかに三十五マイルだが、私はいままでこんな大きな川を越えたことはない。入江は歓迎する前触れの使者のように現れるが、同時に前途に横たわる一大帝国——人跡絶えた荒涼たる荒野、偉大な孤独、大洋の砂漠のようにな美を私に予告している。
  いま靄が私のうしろに濃く押し寄せ、ついに海岸線は見えなくなる。目のとどくかぎり船は一隻も見えない。ただ幾羽かの旋回する鷗や水面上に浮かぶ幾つかの漂流物が、陸地が近いのを示している。私はいま鏡のような海面上を私についてうごく靄のうず巻きのまっ只中にいる——灰色の靄が灰色の水と溶け合っているので、どこが海の果てなのか、どこが空のはじまりなのか皆目わからない。
  私は操縦席でくつろぐ——この布張りの小さな箱のなかで、私は大西洋横断をするのだ。万事が調子よくいったにしても、ル・ブールジュ飛行場のフランスの土を踏むまでは、私は一日半というものはこの小さな箱からうごけないのだ。一オンスの重さも抵抗もないように、きちんと私のまわりに合うように設計されているが、生きているにはとにかく窮屈な場所だ。胴体の両側は両ひじを張っただけでつき当たる。計器盤はちょっと手をのばしただけで届く。屋根の薄い肋骨のあいだから、わずかに私のヘルメットが出せるようになっている。これで十分余裕がある。これ以上の余裕は必要ない。しかしこれより狭くても困る。この操縦席は、一着の洋服のように私のからだにぴったりと作られたのだ。
  パイロットというものは、数千マイルを飛んではじめて機内でくつろげるものだ。はじめのうちは新しい家屋に引っ越したようだ。ドアの鍵もスムーズにすべり込まない。把手も電灯のスイッチも、手をおいたところにはない。階段も窮屈だし、窓は調子よく持ち上がらない。そのうち鍵も何回と使っているうちに急に調子がわかり、簡単に開くようになる。また把手やスイッチも、夜のまっ暗闇のなかでも指でさわっただけで用が足せるようになる。窓はちょっと押しただけで、するりと開く。
  カルフォルニアにおけるテスト飛行、南西部の砂漠と山脈の上空を飛んだ何時間かの夜間飛行、アレギニー山脈を越えてニューヨークにたちまち着いた空の旅などが、セント・ルイス号から真新しい感じをすべて取り去ってくれた。ダイアル一つ、レバー一つも、ちょっと見たり触れたりするにもちょうどよい場所にある。また、制動装置を軽く押しただけで、すぐに反応がある。耳も星型発動機のテンポに慣れた。それは計器盤の文字に歩調を合わせ、また霧が晴れるにつれて自信と希望への期待が生まれる。

佐藤亮一 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  単独で飛行するのは、なんと得るところが多いことか! 私は、父が何年か前、他人を頼りすぎることに対して戒めてくれたのがいまわかった。父はミネソタの古い移住者のことばをよく引用して教えたものだ——「ひとりはひとり、ふたりになると半人前、三人ではゼロになる」これはインディアンが敵意を持っていた当時、猟をしたり、わなをかけたり、偵察したりすることに関係があったのだ。これはなんと現代生活に、そしていまの私の飛行にぴったりあてはまることか。単独飛行によって、私は方角と時間の融通性を自分にまかされた。そして何よりも私は自由を得たのだ。私は、私の計画に通じている同乗者を一名も連れて行かねばならぬことはなかった。私の行動は、他人の気性や健康や、あるいは知識によって制限されなかった。私の決定は他人の生命に責任を持つことで重圧を感じなくてよいのだ。昨夜天候が良好に向かいつつあるのを知ったとき、私はだれにも相談しなかった。私はただ、セント・ルイス号を明け方に備えるように命令することが必要だっただけだ。私が泥んこの滑走路や追い風のなかで操縦席にすわっているとき、だれひとりとして「くそ、やらせたらいいや!」とか、「どうもよくないようだな」などといって、私の判断をぐらつかせる者もいなかった。私はまた、ひどい口論や気の重い組織上の問題に巻き込まれることもなかった。いまの私は、なんの束縛も受けずに私の心と感覚の命ずるままに、前進もできるし、また引き返すこともできるのだ。父のことばに従えば、私は完全に一人前の——独立した——私だけの男なのだ。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  果てしない水平線と無限の水のひろがりを前方に見ながら、私は改めてこんな飛行を企てた私の思い上がりに、いまさらのように驚く。私は陸地を見捨てて、いま、人間によって発明された最ももろい乗物に乗って、海洋へと向かっているのだ。どうして私は、揺れうごく羅針儀の針が私を安全に着陸するまで導くことに、それほど頼らなければならないのだ?なぜ私は、図面に線を引いて方位と距離を計れば、移り変わる空中をヨーロッパまでの道をたどれるのだと信じ込んで、あえて自分の生命を賭けたのだ?どうして私は、セント・ルイス号の機首をあの変化のない果てしない水平線上を目標なしに保ちつつ、ノヴァ・スコシアを発見し、アイルランドを発見し、そして最後に地球上のル・ブールジュという極小地点を発見する確信が持てたのか?

 

  空中を飛ぶ一室、そこが私が生きているところだ。山脈より高い一室、雲と空のなかの一室。幾多の苦労を重ねて、私はここまでたどり着いたのだ。幾月も計画を練り、細心の注意を払って私はこの一部を取りつけたのだ。いま私は、たったひとりでこの見晴らしのよい地点でくつろぐことができる。そして太陽には照らすままにまかせ、西風を吹くにまかせ、やがて夜になれば吹雪になるのにまかせればよい。
  操縦席内の細部が何かと私の意識にのぼってきた——計器類、レバー、構造の角材などが。一つ一つがいまは真価をみせるのだ。私は鋼管の熔接部分を調べる(目に見えない何トンもの応力が通過する冷たい鋼のギザギザの部分)、高度計の表面のラジウムで示す点(その唯一の使命は、セント・ルイス号が海上二千フィートのとき、針はどこをさしていなければならないかを示す)、燃料バルブのバッテリー(私の機と私の生命は、人間の血管を流れる血液のように、バルブをとおして流れる液体のわずかな流れに依存しているのだ)——すべてこれらが——いままでそれほど気にもかけなかったのが——いまははっきりと重要なことがわかる。私は複雑な飛行機を空間を突進して飛ばしているのだが、しかしこの小さな操縦席を取り囲むものはしごく軽便であり、時間から解放されて考えにひたることができる。
  三十時間?なんと不適当な寸法だ!私は三十時間の長さを何千回も過ごしてきたが、こんなものではない。パリまで三十時間! そのあいだには洋々たる大洋があり、越さなければならない永遠のカズムがあるのに、なんと簡単に言ってのけるのだ。だれがこの大空を眺め、連なる山の峰を眺め、膝の上の地図をのぞき、機のうごかない翼を見ながら、なおも時間で刻まれた時というものを考えるなんていうことができるのだ?ここセント・ルイス号の一室では、私は全く時間とは別個のわくのなかで生きているのだ。
  私の周りにある身近なものが、なんと眼下の大きな世界とかけ離れていることか。この近いものと遠いものとの組み合わせの不思議。あの地上——数秒にしてたちまち遠ざかり——やがて数千マイルのかなたに遠ざかる。この空気が、私の周りでやさしくそよいでいるが、一インチ向こうのそこの空気は、旋風の速度で突進している。この操縦席内部のこまかい計器類。外界の一大偉観。死との隣り合わせ。生命の長さ。

佐藤亮一 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  私の目には、操縦席の闇のなかの変化を感じる。窓の外を見る。あれが同じ星だろうか?これは同じ空だろうか?なんという輝かしさだ!なんという明るさだ!やっと到達した安全!輝き、明るさ、安全だって?しかしこれは、私が出発した同じ地上の時間とつながる、同じくかすんだ大気なのだ。私はただ空間と時間のちがったわくのなかで存在してきているだけだ。価値というのは相対的なものであり、その人間の状況に依存するだけだ。それは一つのわくから他のわくに変わることであり、そのあいだを行ったり来たりするのだ。ここで私は安全を見出し、ここで私は危険を脱し、大きな嵐を飛び越え、極寒の北方洋上を飛んでいるのだ。ここには私がいままで見たことのない何かがある——黒い夜の輝かしい明るさ。
  私はせいぜい十分ほど入道雲のなかにいた。しかしこれは分の単位で計ることのできない出来事である。このような時間でさえ、時間という海に浮かぶ島のようだ。いちばん重要なことは、経験の無限の回想でもなく、また時間や年月の長さではない。それは、どんなに小さかろうと、島なのだ。島は海上で目を引くように、感覚にも深い印象を与えるのだ。それに対しては、岸辺の波のように歳月というものが打ち寄せては砕けるのだ。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  いまや私は、私のうしろにある最後の橋を焼いた。嵐と暗黒の夜を飛ぶ間にも、私の心は本能的に——あたかも目に見えない綱が私をその海辺にむすびつけているかのように——北アメリカ大陸にかたくむすびつけられていた。まさかの場合には——もしも氷の張りつめた雲が他の雲にのみ込まれていたとしても、もしも油圧が下がりはじめていたとしても、もしもシリンダーが故障を起こしていたとしても——私はアメリカの方向に、そしてわが家に引き返していただろう。しかしいまや私の最後の望みはヨーロッパ大陸にあるのだ。私のまだ見たことのない大陸にあるのだ。それは私のうしろの嵐によって、東方に昇りつつある月によって、夜明けを迎える空と暖かい大気によって、そして下を流れていると思われるメキシコ湾流によって置き換えられた。もう、いまとなっては私は絶対に引き返すことなど考えないだろう。
  私は、セント・ルイス号が東方の空をかき分けて、ひたすら道をたどるにまかせるだけだ。翼下に群らがる雲が割れない限り、ひたすら針路を保ち、燃料タンクを切り替え、そして一時間ごとに日誌に記入するほかは、ただ太陽が昇るのを待つまで何もすることはない。ミクスチュア・コントロール(混合気の調整)はずっと薄い方に定められているし、エンジンはできるだけしぼってある。羅針盤を注意深くにらむ必要もない。夜がもっと早ければ、もしも指針が故障を予報してくれていれば——私がそれに早く気がついて引き返していれば、それだけ私が陸地に着くチャンスがあったはずだ。いまは指針がどうであろうと、エンジンが機を空中にとどめておく限り、私は自分のコースを飛びつづけるだろう。いままでは私は安全から離れて飛びつづけていた。いまは一マイル一マイル飛ぶごとに、私はますます安全に近づくのだ。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  長途の飛行によって幾たびか危機に遭遇し、疲労しきった長時間を送ったあとでは、心も身も離れ離れになるように思われるが、やがてそれは、ときには完全に異なる要素でもあるかのように思われることがよくあり、あたかも肉体が心とのつながりはあるが、けっして結びついているものではない一つの家にすぎないようになる。意識はしだいに通常の感覚を離れる。目の助けを借りずとも、目に見える水平線のかなたの距離も見えるのである。ときに存在が心となんの関わりもないかのように思われる瞬間がある。肉体の欲望とその場の環境の重要さが、普遍的価値の理解のなかに沈められるのだ。
  無限の期間、私は自分のからだから分離されたかのようであり、それはあたかも心理学上の一つの意識性と化して、時間や物質に妨げられることなく、人間をこの世の重苦しい人間的問題にしばりつける重力からも解放されて、地上を越えて空間のなかを大空に向かってひろがって行くかのようだった。私の肉体はもう気を配る必要はない。肉体は空腹も感じない。暖かくも寒くもない。何も思い煩うことのない状態に身を任せている。なぜ私はそんなものをここまで苦労して運んだのだ?そのなかに生きるこの重さのない要素が大空をさっと過ぎ、そして遊星を眺めるというなら、私はそれをロング・アイランドかセント・ルイスに置いて来たほうがよかったかもしれない。この本質的意識は旅行に肉体を必要としない。それは飛行機も必要としないし、エンジンも必要としない。また計器も必要としない。必要なのはただ肉体からの解放であり、それは私が通り過ぎた環境が可能にしたのである。
  それなら一体私はなんなのだ——目で見、手で感じることのできる肉体の本質は?それとも私はこの現実化なのだろうか、その内部に宿り、しかも外部の宇宙にひろがる、哲学上のより偉大なる悟性なのだろうか?——無力ではあるが力を必要としないあらゆる存在の一部——孤独に陥りながら、しかもなおあらゆる創造と結ばれているものなのだろうか?二つが切り離せないように見える瞬間、しかもその二つが単なる光の一閃によって切り離されることもありうる瞬間というものがあるのだ。
  手は操縦桿に、足は方向舵に、目は羅針盤につけられているのだが、この意識はあたかも翼を持った使者のように、翼下の波を訪ね、海水の暖かさ、風の速度、中間に介在してじゃまする雲の厚さを調べに出向く。それは北はグリーンランドの極寒の海岸へ、あるいは水平線を越えて夜明けの端へ、あるいは行く手のかなたアイルランドイングランド、そしてヨーロッパ大陸へ、空間を遠く月へ、星へ——そしてそれが出かけているあいだ、果たして手足や筋肉が当てがわれた仕事を、まじめにやっているかどうかを見るための人間的な任務に、心ならずも常に帰ってくる。

 

佐藤亮一 訳