本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

リルケ 「リルケ全集第3巻」

詩人


時間よ、おまえは 私から遠のいていく。
おまえの羽ばたきが 私に傷を負わすのだ。
いまは孤独、私の口を 私の夜を
そして私の昼を 私はどうしたらいいのか?

 

私には 恋人もいなければ 家もない
私の生きていく場所もない。
すべての事物に 私が着手すると、
事物は 豊かになって 私を手放してしまうのだ。

 

塚越敏  

リルケ 「リルケ全集第2巻」

厳粛な時

 

いまこの世のどこかで泣いているひと
        わけもなくこの世で泣いているひとは
        わたしのために泣いている。

 

いまこの夜のどこかで笑っているひと
        わけもなくこの夜に笑っているひとは
        わたしを笑っている。

 

いまこの世のどこかであるいているひと
        わけもなくこの世であるいているひとは
        わたしにむかってあるいている。

 

いまこの世のどこかで死んでゆくひと
        わけもなくこの世で死んでゆくひとは
        じっとわたしをみつめている。

 

上村弘雄 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  私はついにパリ途上の、最初の短い海辺の上空にただひとりとなった。海面はおだやかである。水面の油のようになめらかな輝きの下には、少しもうごきらしいものは見えない。コネチカット川の岸まではわずかに三十五マイルだが、私はいままでこんな大きな川を越えたことはない。入江は歓迎する前触れの使者のように現れるが、同時に前途に横たわる一大帝国——人跡絶えた荒涼たる荒野、偉大な孤独、大洋の砂漠のようにな美を私に予告している。
  いま靄が私のうしろに濃く押し寄せ、ついに海岸線は見えなくなる。目のとどくかぎり船は一隻も見えない。ただ幾羽かの旋回する鷗や水面上に浮かぶ幾つかの漂流物が、陸地が近いのを示している。私はいま鏡のような海面上を私についてうごく靄のうず巻きのまっ只中にいる——灰色の靄が灰色の水と溶け合っているので、どこが海の果てなのか、どこが空のはじまりなのか皆目わからない。
  私は操縦席でくつろぐ——この布張りの小さな箱のなかで、私は大西洋横断をするのだ。万事が調子よくいったにしても、ル・ブールジュ飛行場のフランスの土を踏むまでは、私は一日半というものはこの小さな箱からうごけないのだ。一オンスの重さも抵抗もないように、きちんと私のまわりに合うように設計されているが、生きているにはとにかく窮屈な場所だ。胴体の両側は両ひじを張っただけでつき当たる。計器盤はちょっと手をのばしただけで届く。屋根の薄い肋骨のあいだから、わずかに私のヘルメットが出せるようになっている。これで十分余裕がある。これ以上の余裕は必要ない。しかしこれより狭くても困る。この操縦席は、一着の洋服のように私のからだにぴったりと作られたのだ。
  パイロットというものは、数千マイルを飛んではじめて機内でくつろげるものだ。はじめのうちは新しい家屋に引っ越したようだ。ドアの鍵もスムーズにすべり込まない。把手も電灯のスイッチも、手をおいたところにはない。階段も窮屈だし、窓は調子よく持ち上がらない。そのうち鍵も何回と使っているうちに急に調子がわかり、簡単に開くようになる。また把手やスイッチも、夜のまっ暗闇のなかでも指でさわっただけで用が足せるようになる。窓はちょっと押しただけで、するりと開く。
  カルフォルニアにおけるテスト飛行、南西部の砂漠と山脈の上空を飛んだ何時間かの夜間飛行、アレギニー山脈を越えてニューヨークにたちまち着いた空の旅などが、セント・ルイス号から真新しい感じをすべて取り去ってくれた。ダイアル一つ、レバー一つも、ちょっと見たり触れたりするにもちょうどよい場所にある。また、制動装置を軽く押しただけで、すぐに反応がある。耳も星型発動機のテンポに慣れた。それは計器盤の文字に歩調を合わせ、また霧が晴れるにつれて自信と希望への期待が生まれる。

佐藤亮一 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  単独で飛行するのは、なんと得るところが多いことか! 私は、父が何年か前、他人を頼りすぎることに対して戒めてくれたのがいまわかった。父はミネソタの古い移住者のことばをよく引用して教えたものだ——「ひとりはひとり、ふたりになると半人前、三人ではゼロになる」これはインディアンが敵意を持っていた当時、猟をしたり、わなをかけたり、偵察したりすることに関係があったのだ。これはなんと現代生活に、そしていまの私の飛行にぴったりあてはまることか。単独飛行によって、私は方角と時間の融通性を自分にまかされた。そして何よりも私は自由を得たのだ。私は、私の計画に通じている同乗者を一名も連れて行かねばならぬことはなかった。私の行動は、他人の気性や健康や、あるいは知識によって制限されなかった。私の決定は他人の生命に責任を持つことで重圧を感じなくてよいのだ。昨夜天候が良好に向かいつつあるのを知ったとき、私はだれにも相談しなかった。私はただ、セント・ルイス号を明け方に備えるように命令することが必要だっただけだ。私が泥んこの滑走路や追い風のなかで操縦席にすわっているとき、だれひとりとして「くそ、やらせたらいいや!」とか、「どうもよくないようだな」などといって、私の判断をぐらつかせる者もいなかった。私はまた、ひどい口論や気の重い組織上の問題に巻き込まれることもなかった。いまの私は、なんの束縛も受けずに私の心と感覚の命ずるままに、前進もできるし、また引き返すこともできるのだ。父のことばに従えば、私は完全に一人前の——独立した——私だけの男なのだ。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  果てしない水平線と無限の水のひろがりを前方に見ながら、私は改めてこんな飛行を企てた私の思い上がりに、いまさらのように驚く。私は陸地を見捨てて、いま、人間によって発明された最ももろい乗物に乗って、海洋へと向かっているのだ。どうして私は、揺れうごく羅針儀の針が私を安全に着陸するまで導くことに、それほど頼らなければならないのだ?なぜ私は、図面に線を引いて方位と距離を計れば、移り変わる空中をヨーロッパまでの道をたどれるのだと信じ込んで、あえて自分の生命を賭けたのだ?どうして私は、セント・ルイス号の機首をあの変化のない果てしない水平線上を目標なしに保ちつつ、ノヴァ・スコシアを発見し、アイルランドを発見し、そして最後に地球上のル・ブールジュという極小地点を発見する確信が持てたのか?

 

  空中を飛ぶ一室、そこが私が生きているところだ。山脈より高い一室、雲と空のなかの一室。幾多の苦労を重ねて、私はここまでたどり着いたのだ。幾月も計画を練り、細心の注意を払って私はこの一部を取りつけたのだ。いま私は、たったひとりでこの見晴らしのよい地点でくつろぐことができる。そして太陽には照らすままにまかせ、西風を吹くにまかせ、やがて夜になれば吹雪になるのにまかせればよい。
  操縦席内の細部が何かと私の意識にのぼってきた——計器類、レバー、構造の角材などが。一つ一つがいまは真価をみせるのだ。私は鋼管の熔接部分を調べる(目に見えない何トンもの応力が通過する冷たい鋼のギザギザの部分)、高度計の表面のラジウムで示す点(その唯一の使命は、セント・ルイス号が海上二千フィートのとき、針はどこをさしていなければならないかを示す)、燃料バルブのバッテリー(私の機と私の生命は、人間の血管を流れる血液のように、バルブをとおして流れる液体のわずかな流れに依存しているのだ)——すべてこれらが——いままでそれほど気にもかけなかったのが——いまははっきりと重要なことがわかる。私は複雑な飛行機を空間を突進して飛ばしているのだが、しかしこの小さな操縦席を取り囲むものはしごく軽便であり、時間から解放されて考えにひたることができる。
  三十時間?なんと不適当な寸法だ!私は三十時間の長さを何千回も過ごしてきたが、こんなものではない。パリまで三十時間! そのあいだには洋々たる大洋があり、越さなければならない永遠のカズムがあるのに、なんと簡単に言ってのけるのだ。だれがこの大空を眺め、連なる山の峰を眺め、膝の上の地図をのぞき、機のうごかない翼を見ながら、なおも時間で刻まれた時というものを考えるなんていうことができるのだ?ここセント・ルイス号の一室では、私は全く時間とは別個のわくのなかで生きているのだ。
  私の周りにある身近なものが、なんと眼下の大きな世界とかけ離れていることか。この近いものと遠いものとの組み合わせの不思議。あの地上——数秒にしてたちまち遠ざかり——やがて数千マイルのかなたに遠ざかる。この空気が、私の周りでやさしくそよいでいるが、一インチ向こうのそこの空気は、旋風の速度で突進している。この操縦席内部のこまかい計器類。外界の一大偉観。死との隣り合わせ。生命の長さ。

佐藤亮一 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  私の目には、操縦席の闇のなかの変化を感じる。窓の外を見る。あれが同じ星だろうか?これは同じ空だろうか?なんという輝かしさだ!なんという明るさだ!やっと到達した安全!輝き、明るさ、安全だって?しかしこれは、私が出発した同じ地上の時間とつながる、同じくかすんだ大気なのだ。私はただ空間と時間のちがったわくのなかで存在してきているだけだ。価値というのは相対的なものであり、その人間の状況に依存するだけだ。それは一つのわくから他のわくに変わることであり、そのあいだを行ったり来たりするのだ。ここで私は安全を見出し、ここで私は危険を脱し、大きな嵐を飛び越え、極寒の北方洋上を飛んでいるのだ。ここには私がいままで見たことのない何かがある——黒い夜の輝かしい明るさ。
  私はせいぜい十分ほど入道雲のなかにいた。しかしこれは分の単位で計ることのできない出来事である。このような時間でさえ、時間という海に浮かぶ島のようだ。いちばん重要なことは、経験の無限の回想でもなく、また時間や年月の長さではない。それは、どんなに小さかろうと、島なのだ。島は海上で目を引くように、感覚にも深い印象を与えるのだ。それに対しては、岸辺の波のように歳月というものが打ち寄せては砕けるのだ。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  いまや私は、私のうしろにある最後の橋を焼いた。嵐と暗黒の夜を飛ぶ間にも、私の心は本能的に——あたかも目に見えない綱が私をその海辺にむすびつけているかのように——北アメリカ大陸にかたくむすびつけられていた。まさかの場合には——もしも氷の張りつめた雲が他の雲にのみ込まれていたとしても、もしも油圧が下がりはじめていたとしても、もしもシリンダーが故障を起こしていたとしても——私はアメリカの方向に、そしてわが家に引き返していただろう。しかしいまや私の最後の望みはヨーロッパ大陸にあるのだ。私のまだ見たことのない大陸にあるのだ。それは私のうしろの嵐によって、東方に昇りつつある月によって、夜明けを迎える空と暖かい大気によって、そして下を流れていると思われるメキシコ湾流によって置き換えられた。もう、いまとなっては私は絶対に引き返すことなど考えないだろう。
  私は、セント・ルイス号が東方の空をかき分けて、ひたすら道をたどるにまかせるだけだ。翼下に群らがる雲が割れない限り、ひたすら針路を保ち、燃料タンクを切り替え、そして一時間ごとに日誌に記入するほかは、ただ太陽が昇るのを待つまで何もすることはない。ミクスチュア・コントロール(混合気の調整)はずっと薄い方に定められているし、エンジンはできるだけしぼってある。羅針盤を注意深くにらむ必要もない。夜がもっと早ければ、もしも指針が故障を予報してくれていれば——私がそれに早く気がついて引き返していれば、それだけ私が陸地に着くチャンスがあったはずだ。いまは指針がどうであろうと、エンジンが機を空中にとどめておく限り、私は自分のコースを飛びつづけるだろう。いままでは私は安全から離れて飛びつづけていた。いまは一マイル一マイル飛ぶごとに、私はますます安全に近づくのだ。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  長途の飛行によって幾たびか危機に遭遇し、疲労しきった長時間を送ったあとでは、心も身も離れ離れになるように思われるが、やがてそれは、ときには完全に異なる要素でもあるかのように思われることがよくあり、あたかも肉体が心とのつながりはあるが、けっして結びついているものではない一つの家にすぎないようになる。意識はしだいに通常の感覚を離れる。目の助けを借りずとも、目に見える水平線のかなたの距離も見えるのである。ときに存在が心となんの関わりもないかのように思われる瞬間がある。肉体の欲望とその場の環境の重要さが、普遍的価値の理解のなかに沈められるのだ。
  無限の期間、私は自分のからだから分離されたかのようであり、それはあたかも心理学上の一つの意識性と化して、時間や物質に妨げられることなく、人間をこの世の重苦しい人間的問題にしばりつける重力からも解放されて、地上を越えて空間のなかを大空に向かってひろがって行くかのようだった。私の肉体はもう気を配る必要はない。肉体は空腹も感じない。暖かくも寒くもない。何も思い煩うことのない状態に身を任せている。なぜ私はそんなものをここまで苦労して運んだのだ?そのなかに生きるこの重さのない要素が大空をさっと過ぎ、そして遊星を眺めるというなら、私はそれをロング・アイランドかセント・ルイスに置いて来たほうがよかったかもしれない。この本質的意識は旅行に肉体を必要としない。それは飛行機も必要としないし、エンジンも必要としない。また計器も必要としない。必要なのはただ肉体からの解放であり、それは私が通り過ぎた環境が可能にしたのである。
  それなら一体私はなんなのだ——目で見、手で感じることのできる肉体の本質は?それとも私はこの現実化なのだろうか、その内部に宿り、しかも外部の宇宙にひろがる、哲学上のより偉大なる悟性なのだろうか?——無力ではあるが力を必要としないあらゆる存在の一部——孤独に陥りながら、しかもなおあらゆる創造と結ばれているものなのだろうか?二つが切り離せないように見える瞬間、しかもその二つが単なる光の一閃によって切り離されることもありうる瞬間というものがあるのだ。
  手は操縦桿に、足は方向舵に、目は羅針盤につけられているのだが、この意識はあたかも翼を持った使者のように、翼下の波を訪ね、海水の暖かさ、風の速度、中間に介在してじゃまする雲の厚さを調べに出向く。それは北はグリーンランドの極寒の海岸へ、あるいは水平線を越えて夜明けの端へ、あるいは行く手のかなたアイルランドイングランド、そしてヨーロッパ大陸へ、空間を遠く月へ、星へ——そしてそれが出かけているあいだ、果たして手足や筋肉が当てがわれた仕事を、まじめにやっているかどうかを見るための人間的な任務に、心ならずも常に帰ってくる。

 

佐藤亮一 訳  

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  私の心は操縦席をはぐれては、またもどる。私の目は閉じたり開いたり、そしてまた閉じたり。しかしおぼろげながら、私の助けにやって来ている新しい要素に気がつきはじめる。それは、私はどうも三つの個性、三つの要素からできあがっており、その各々が一部分は他に頼り一部分は他から独立しているらしい。一つは肉体だが、それはいまこの世で最も求めるものは眠りであることを、はっきり知っている。また一つは私の心だが、それは絶えず、私のからだが従うことを拒否しているのだと判断はしているが、しかしそのこと自体が決心を弱めているのだ。さらにはもう一つほかの要素がある。それは疲労によって弱まるどころか、かえって強くなるように思われるもの——精神的要素ともいうべきもので、この背景のなかから踏み出して、心と肉体の両方を支配する一つの指令を発する力である。それは賢明な父親が子供らを守るように守ってくれるようである。一度は危険の極点までわざと放してやるが、それから断固とした、しかも思いやりのある手で呼び戻して守ってやるのである。
  私のからだが、どうしても眠らなければならないと叫び声をあげると、この第三の要素は答える——ちょっとくつろぐことによって、いくらかの休息は取ることができるかもしれないが、しかしその眠りは取るべきものではないのだ——と。私の心が、からだに手ぬかりなく目を覚ましているように要求するとき、このような状態の下では警戒への期待はあまりに大きすぎるということを知らせる。そして眠れば失敗を招き、やがて墜落して大洋のなかで溺死するということを興奮して主張すればおだやかに納得して、そのとおりだという。しかし肉体の一部の緊張を期待してはならないあいだは、自信を持つことができるので眠らないようになる。
  重い瞼の下で、私の目は完全に肉体から分離し、そのなかは本質の中味がないものとなり、見るというよりは、むしろ意識するためのものになってしまう。目はこの第三の要素の一部となるのだが、この分離した心はわがものでありながらわがものでなく、はるか離れた永遠なるもののなかにあるとともに、私の頭蓋骨の閉じ込められたなかに——操縦席の内部と同時にその外部にあるこの心は、私に結びつきながら、しかもなおどこかの有限の空間に無限に結びついているのだ。
  夜明けと日の出のいとも長きあいだ、われわれはセント・ルイス号を安定した飛行機に作らなかったことを、私はありがたく思う。不安定であればこそ盲目飛行や夜間に正確なコースも保つことを困難にしているのだが、それがいま極端な誤りから私を守ってくれているのだ。それはまた機と私を互いに相補わせることにしているのだ。私が心身ともすがすがしいときは機の積み荷が重くても、私の反応が機敏なため機首がコースから外れるのを防いだものだ。いまの私は夢幻のなかをさ迷い睡魔に悩まされているが、機がコースから外れると私の鈍い感覚をちくりと突いて呼び起こす。操縦桿や方向舵のどちらかへの圧力を少しでもゆるめると、急に上昇をはじめるか、さもなければ急降下旋回をはじめ、私を眠りの境界線から引きもどす。それによって私は羅針盤に目を据えふたたび所定のコースを保つようにする。

 

佐藤亮一 訳

チャールズ・A・リンドバーグ 「翼よ、あれがパリの灯だ」

  セント・ルイス号は、すばらしい飛行機だ。まるで生きもののようだ——スムーズに、そして楽しむかのように空をすべる様子は、飛行の成功は私と同じように機の自分にとっても重要であり、われわれは一体となって経験を分ち合い、互いに美と生命と死を相手の忠実さに賭けて、頼り切っているかのようだ。私と機が一体となったわれわれが——私だけでもなければ機だけでもない——この大洋の横断を成し遂げたのだ。
エンジンの計器を懐中電灯で照らしてみる。指針は全部正しい位置にある。ほとんど三十三時間、どの指針も正常の位置からはずれていない——機首タンクが空っぽになったとき以外には、私が飛んだ一分間ごとに、シリンダーは七千回以上に爆発をつづけたのだが、それでいて一度も故障は起こしていない。

  四千フィートで私は機を水平にして、パリ市を示すはずの前方の空の輝きを求める。もう一時間も経たずに私は着陸するのだ。私の地図の一点がパリ自身となって現われるだろう——空港も格納庫も投光照明も、それから私を誘導するために整備員たちも走って出て来るだろう。翼下の地上はすべて灯火のかたまりだ。大きなかたまりは都市で、小さいのは町や村だ。ポツリ、ポツリと店のように見える灯は、農場の建物だ。私はいま地上から反対側の空を眺めているような気持ちになる。パリは夜をあざむく大きなきら星のようである。
  一時間も経たないうちに私は着陸するだろう。しかしいまとなっては不思議なことに、それが早く過ぎてもらいたい気持ちではない。いまは少しも眠くはない。目もいまはもう塩漬けの石みたいではない。からだのどこも痛むところはない。夜は冷たく安全だ。私は操縦席に静かにすわったまま、いまはついに飛行を完全に成し遂げたという実感を心に銘じたい。ヨーロッパは眼下にある。パリは前方の——あと数分間灯の上を越えた——夜のなかの地上の曲線を過ぎたところにある。それは、珍しい花を見つけて懸命に山を登るようなものだ。やがてそれが手を伸ばせば届くところまでたどり着くと、こんどはそれを引き抜くよりも、それを見つけたということにいっそう満足感と幸福感を覚えるのと似ている。花を摘むということは、それをしぼませるということと切り離せないものだ。私は飛んだというこの飛行の最高の経験を引き延ばしたい。むしろパリはもっと時間のかかるところにあればよいとさえ思う。こんなよく晴れた夜に、しかもタンクにまだたっぷりと燃料を残したままで着陸するのは、恥ずかしい。

 

佐藤亮一 訳  

トーベ・ヤンソン 「島暮らしの記録」

  わたしたちは島の変貌に浮かれ、期待に胸を踊らせ、見境もなく雪の中を走りまわり、航路標識に雪玉をぶつけた。トゥーティは鼻づらを反らせた橇を薄い羽板で造り、わたしたちは岩山の頂上から凍った海をめがけて何度も滑りおりた。
  はしゃぐのに飽きてしまい、腰をおろして感覚を研ぎすます。海は右も左も見渡すかぎり真っ白だ。そのときはじめて完璧な静寂に気づいたのである。
  自分たちが声を低めて喋っていることにも。 

 

  さて、長い待機が始まった。わたしは孤立とは似ても似つかぬ、新手の隠遁にはまりこむ。だれともかかわらず、部外者を決めこみ、なんにしろ良心の呵責はいっさい感じない。なぜかはわからないが、なにもかもが単純になり、ただしあわせだと感じるに任せる。
  トゥーティは氷を鋸で挽き、ごみ捨て用の穴をくり抜いた。
  わたしたちはますます言葉少なになり、日々の仕事をするにも自分ひとりでいるかのように振るまう。とても穏やかな気持ちだ。

 

富原眞弓 訳  

トーベ・ヤンソン 「島暮らしの記録」

  クンメル岩礁灯台守になろうと決意したとき、わたしは小さな子どもだった。じっさいには細く長い光を発するだけの灯台しかなかったので、もっと大きな灯台を、フィンランド湾東部をくまなく見渡して睨みをきかす立派な灯台を建てようと計画を練った——つまり、大きくなって金持ちになったらである。
  しかし、時の流れとともに手の届かぬものへの夢は様変わりし、可能性をもてあそぶ戯れとなり、やがて諦めの悪い不機嫌な執念となり、ついには漁業組合に鮭が肝を潰すからだめだと身も蓋もなく宣告されるにいたり、一件落着となった。
  クンメル岩礁から内陸に二海里半ばかりの海域に、だれも正確には数えあげたことがない小島群がある。そのひとつがブレド岩礁で、わたしたちはここを首尾よく借りうけたのである。
かくも長らく引きずってきた深い失望が、あらたな愛によってかくも速やかに忘れさられようとは、驚いてしまうけれども、ほんとうである。この島に住むようになった者はみな、ほとんど時を移さず、地上の楽園を見いだしたと思いこむにいたった。あれこれ手を加えては島の美しさをひきたてたり、はたまたぶち壊したりしたが、わたしたちの高揚感は揺るがなかった。縮小版とはいえ、なんでもあった。小さな森の径と苔、ボートの安全にはうってつけの小さな砂浜、ワタスゲが群生する小さな沼まであった。どれほど島を誇らしく思ったことか!
  人に羨ましがられたい、見せびらかしたいとも思った。わたしたちが誘うと、人びとは島にやって来た。そして再訪。くる夏もくる夏も、頭数を増やしながら、来訪が繰りかえされる。自分の友人を連れてくる客もあり、友人との決裂を引きずってくる客もあるが、ともかくだれもがじつによく喋る。素朴なもの、現初的なるものへの憧れを、そして何よりも孤独への憧れを吹聴する。
  やがて島は人びとで溢れかえり、トゥーティとわたしはもっと遠い沖合への移動を考えはじめた。

 

富原眞弓 訳  

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 「森の生活—ウォールデン—」孤独

  わたしは、大部分のときを孤独ですごすのが健全なことであるということを知っている。最も善い人とでもいっしょにいるとやがて退屈になり散漫になる。わたしは独りでいることを愛する。わたしは孤独ほどつき合いよい仲間をもったことがない。われわれはたいがい、自分の部屋にとじこもっているときより、そとに出て人なかに立ちまじわったときの方が一層孤独になる。考えつつあり、あるいは働きつつある人間は、どこにいようとつねに孤独である。孤独は人とその仲間とのあいだをへだてる空間のマイル数によって計量されるものではない。

 

  社交は通常あまりに安価である。われわれはあまりしげしげと会い、その間にお互いにとって何かの新しい価値のあるものを獲得する時間をもたないで会う。われわれは一日に三回食事時に会い、お互いに、われわれがそれであるところの古い黴くさいチーズの味をあらためて相手に味わわさせる。われわれはこの頻繁な会合をがまんできるものにするために、そして公然たる戦争をひらかずにすむように、礼儀作法とよばれる、あるひと組の規則を取りきめなければならなかったのだ。われわれは郵便局で会い、懇親会で会い、毎晩炉辺で会う。われわれはごたごたと生き、お互いの邪魔になり、お互いにつまずきあう。こうしてわれわれはお互いに対して多少とも敬意を失うのだとわたしは思う。

 

神吉三郎 訳  

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 「森の生活—ウォールデン—」より高い法則

  想像を反発させないほど単純で清潔な食事を提供し料理することはむずかしいことである。しかし、われわれが肉体に給食するときにはこの想像にも給食すべきであるとわたしはかんがえる。この二つは同じ食卓に座るべきである。だが、このことはたぶん可能である。果実が適度に食われたときわれわれは自分の食欲を恥じる必要がなく、最も高尚な仕事も中断されない。けれども皿のうえに余分な調味料を加えればそれはわれわれを毒するだろう。上等な料理を食う生活は無益なものだ。たいていの人間は、動物食にもせよ植物食にもせよ、毎日他人によってかれらのために調理されるのと全くおなじような食事を自分の手で調理しているところを人に見られたら羞しく感じるだろう。けれどもこのやり方が変わらないかぎりはわれわれは文明にはならず、われわれは紳士淑女ではあるかもしれないが、真の男または女ではありえない。このことはたしかにどういう変更がなされるべきであるかを暗示している。何ゆえ人間の想像が肉や脂肪と調和できないのか問うのは無駄であろう。わたしは調和できないということを確信している。人間が肉食動物であるということは一つの非難ではないか?なるほど人間は主として他の動物を餌食にすることによって生きることができるし、生きてもいるけれどもこれはみじめなやり方だ——誰でも兎を罠にかけ子羊を屠殺する者が思い知ることができるとおり。そして、もっと罪のない、滋養になる食事のみをとるように人間に教える者は人類の恩人と見なされるであろう。わたし自身の実際はともあれ、野蛮人がより文明のすすんだ人間と接触するようになったときにお互いに食うことを止めたとおなじようにたしかに、動物を食うことをやめることは、人類の運命がその徐々たる進歩において当然なすべき一事であることをわたしは信じてうたがわない。

 

神吉三郎 訳  

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー 「森の生活—ウォールデン—」より高い法則

もし昼と夜とが歓びをもって迎えられるようなものであり、生活が花や匂いのよい草のように香りをはなち、より弾みがあり、より星のごとく、より不朽なものであったら——それが君の成功なのだ。すべての自然は君に対する祝賀であり、君は自らを祝福すべき理由を刻々にもつ。最大の利得と価値とはそれと認められることから最も遠い。ともすればわれわれはそういうものが存在するかどうかをうたがう。われわれはたちまちそれらを忘れてしまう。それらは最高の現実である。たぶん、最もおどろくべく最も現実的な事実は決して人から人へとつたえられない。わたしの毎日の生活の真の収穫は朝と夕べの色どりにいくらか似たもので、手で触れがたく名状しがたい。それはとらえられた小さな星くずであり、わたしがつかまえた虹のひとかけである。

 

神吉三郎 訳