本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

村上春樹 「ノルウェイの森」第3章

  永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短い」

 

  僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット・フィッツジェラルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ」
「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット・フィッツジェラルドくらいの立派な作家はアンダー・パーでいいんだよ」  

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第6章

  しかしワールドワイドウェブは、バーナーズ=リーが意図し、多くの人々が切望したものとは全く異なっていた。テキストの表示だけではなく、画像の表示やトランザクション処理も行える汎用媒体を作ったことによって、ウェブはインターネットを知的集会所から営利企業へと変えた。バーナーズ=リーが発明を公開した直後の短い期間、ウェブでは商業活動は全く行われていなかった。1993年末の時点で、ドットコムのドメインにあるサイトは五パーセントに満たなかった。しかし、新しい媒体の収益力が明らかになると企業が殺到し、商業的なサイトが急速にネットワークを支配するようになった。1995年末には、全サイトの半分はドットコムのアドレスを持ち、1996年半ばになると、商業的サイトは全体のほぼ七十パーセントを占めた。 "サマー・オブ・ラブ"から三十年後、若者たちが再びサンフランシスコに集まり始めた。しかし、その目的は自由詩を聞くことでも、麻薬に耽るためでもなかった。若者たちは荒稼ぎするために来たのだ。ウェブは心の拠り所ではなく、ビジネスの拠り所となった。
  インターネットはこれまで常に、その動作の仕方でも、利用のされ方、認識のされ方でも、多くの矛盾に満ちた仕組みだった。インターネットは、官僚的支配の道具でありながら個人を解放する道具でもあり、共同体の理想と企業の収益の双方につながる導管である。ネットが世界的なコンピューティングネットワークとなり、多目的技術として利用される機会が増えるにつれて、こうした技術的・経済的・社会的緊張はより顕著になりつつある。この緊張を解決することが、良くも悪くも、来るべき時代にネットワークがどのような結末を迎えるかを決めるだろう。

 

村上彩 訳  

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第7章

  これらの事業が実証しているのは、経済学者が「規模に対して収穫逓増」と呼ぶ、通常とは異なる経済的行動である。要するに、多く売れば売るほど、より儲かる、という意味だ。その原動力は、産業界で優勢な力とは全く異なるものである。なぜなら、往来のビジネスは、「規模に対して収穫逓減」の支配下にあるからだ。物理的な商品の生産者がその生産高を増やすと、遅かれ早かれ、製品を作って売るのに必要な原料、部品、供給、不動産および労働者への投入に対して、より多くを支払わなければならなくなる。生産者は「規模の経済」を達成することで、投入コストの上昇を相殺することができる。しかし最終的には、コスト上昇が「規模の経済」を圧倒して、企業の利益すなわち収穫は縮小し始める。この収穫逓減の法則が有効に働くと、企業の規模、あるいは少なくとも企業の利益の規模に制限を課すことになる。
  最近まで、情報商品の大半も、収穫逓減の支配下にあった。なぜなら、情報商品は物理的な方法で流通せざるを得なかったからだ。言葉は紙に印刷し、動画はフィルムに撮影し、ソフトウェアコードはディスク上へ書き込まなければならなかった。しかしインターネットは、情報商品を形のない1と0の羅列に変えて、物理的な流通から解放するとともに、収穫逓減の法則からも解放した。デジタル商品は、基本的にコストをかけずに無限に複製することができるので、生産者は事業が拡大しても、原材料の購買を増やす必要はない。さらに多くの場合、ネットワーク効果という現象によって、デジタル商品を利用する人数が増えるとともに、その商品の価値も上がっていく。・・・売り上げや利用者数が増えるにつれて、収益も拡大していくのだ——それも無限大に。

 

村上彩 訳  

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第7章

ここで、ユーチューブの事例をもっと詳しく見てみよう。ユーチューブは、放映している何十万タイトルものビデオに一セントも払っていない。すべての制作コストは、サービスのユーザーが負担している。ユーザーはディレクター、制作者、執筆者、役者であり、その作品をユーチューブのサイトにアップロードすることで、実質的には労働力をユーチューブに寄付している。「ユーザーがコンテンツを制作する」という貢献の仕方は、インターネット上ではごく普通のことで、ユーザーたちはさまざまなウェブビジネスに原材料を提供しているのである。何百万人もの人々がブログやブログのコメントを通じて共有している表現や思想は、企業によって収集・配給されている。オープンソースソフトウェアプロジェクトに貢献している人々もまた、労働を寄付している。しかも、彼らの努力の産物が、IBM、レッドハット、オラクルといった営利企業によって商品化されることがあるにもかかわらずである。人気のオンライン百科辞典であるウィキペディアは、ボランティアによって執筆・編集されている。地域情報検索サイトのイェルプ(Yelp)も、会員が寄稿するレストラン、店舗、地域アトラクションのレビューに支えられている。通信社のロイターは、アマチュアから寄せられた写真やビデオをシンジゲート化しているが、使用料は払ってもごくわずか、大半は無報酬である。マイスペースフェイスブックのようなソーシャルネットワーキングサイトや、PlentyOfFishのような出会い系サイトは、基本的に会員の独創的で無給の貢献が集約されてできあがっている。昔の小作農業さながらのねじれ構造のなかで、サイトのオーナーたちは土地と道具を提供して、会員にすべての作業をやらせて、経済的な報酬を獲得しているのである。

人々がこの種のサイトに貢献する最大の理由は、趣味を追求したり、慈善の目的のために時間を割く理由と大差ない。つまり、楽しいからである。満足感を得られるからである。

ただし、これまでと違うのは、貢献の範囲、規模および洗練の度合いであり、等しく重大なのは、無報酬の労働を戦力化し、それを価値ある商品やサービスに変えてしまう企業の能力なのである。

もちろん、これまでもボランティアは常に存在した。しかしいまや、以前とは比べ物にならないスケールで、無給の労働者が有給の労働者に取って変わることができるのだ。業界はこの現象を言い表す用語まで考えついた。すなわち、クラウドソーシングである。生産手段は大衆の手に渡しておきながら、その共同作業の産物に対する所有権を大衆に与えないことで、ワールドワイドコンピュータは多くの人々の労働の経済的な価値を獲得して、それを少数の人々の手に集約するための極めて効率的なメカニズムを提供しているのである。

村上彩 訳

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第8章

物理的な形状を失ってインターネットに軸足を移してしまうと、情報媒体としての、また事業としての新聞の性格は変わってしまう。新聞は異なる方法で読まれ、異なる方法で金を儲けることになる。・・・
新聞がオンラインへ移行すると、このまとまりはバラバラになる。・・・読者は興味のある記事に直行して、その他は無視することもしばしばである。・・・新聞社にとっても、一つのまとまりとしての新聞の重要性はますます低減している。重要なのは部分である。それぞれの記事は別個の商品となって、むきだしのまま市場に並ぶ。記事の評価は、その経済的価値によって決まるのである。・・・
経済的に言うと、最も成功した記事とは、多くの読者を引き付けるだけでなく、高額な広告を取れるテーマを扱った記事なのである。つまり、最も成功した記事とは、料金の高い広告をクリックしてくれる読者を大勢引き付けた記事なのである。・・・

コンテンツのバラ売りは、新聞その他の印刷出版物に限ったことではない。大部分のオンラインメディアに共通する特徴である。

経済専門家は早速、メディア商品が部分に分解されたことを賞賛している。彼らの見方によれば、そのようにこそ市場は動くべきなのである。消費者は欲しくもないものにお金を"浪費"する必要もなく、本当に欲しいものだけを買うことができるだろう。『ウォールストリート・ジャーナル』は「もはや、良いものを手に入れるためにクズに金を払うようなことは必要のない」新しい時代を宣言するものだとして、この進歩を称賛した。この見方は多くの場合正しいだろうが、あらゆる点で正しいわけではない。独創的な商品は他の消費財とは異なる。他の市場では歓迎される経済効率も、文化を築くための礎に適用する場合には、あまり有益な影響は及ぼさないだろう。そしてインターネットという特異な市場では、あらゆる種類の情報が無料で配られる傾向があり、お金は広告のような間接的な手段で儲けられているということを覚えておくべきだろう。このような市場で、いったん視聴者と広告の両方を細分化すると、ある種の創造的な商品を生産するために多額の投資をすることがビジネス的に正しいかどうかを判断するのは、ますます難しくなってしまう。
もしニュース産業が時代の流れを暗示しているとしたら、我々の文化から淘汰される運命にある"石屑"には、多くの人々が「優れたもの」と判断するような産物も含まれてしまうだろう。犠牲になるのは、平凡なものではなく、質の高いものだろう。ワールドワイドコンピュータが作り出した多様性の文化は、じつは凡庸の文化であることがいずれわかるだろう。何マイルもの広がりがありながら、わずか一インチの深さしかない文化だ。


インターネットは情報収集からコミュニティづくりに至るまで、あらゆることを簡単な処理に変えて、大抵のことはリンクをクリックするだけで表面できるようになった。そうした処理は、一個一個は単純でも、全体としては極めて複雑だ。我々は一日に何百何千というクリックを意図的に、あるいは衝動的に行っているが、そのクリックのたびに、自分自身のアイデンティティや影響力を形成し、コミュニティを構築しているのだ。我々がオンラインでより多くの時間を過ごし、より多くのことを実行するにつれて、そのクリックの複合が、経済、文化および社会を形作ることになるだろう。
クリックがもたらす結果が明らかになるまでには長い時間がかかるだろう。しかし、インターネット楽観主義者が抱きがちな希望的観測、すなわち「ウェブはより豊かな文化を創造し、人々の調和と相互理解を促進するだろう」という考えを懐疑的に扱わなければならないのは明らかだ。文化的不毛と社会的分裂もまた、等しくあり得る結果なのだ。

村上彩 訳

*社会的分裂→ネットユーザーは自分の見解を裏付ける情報を収集したり、価値観の似かよった人との交流を求めがちであり、結果、より極端に走る傾向にあることが指摘されている。

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第10章

  人々がオンラインに費やす時間が増えれば増えるほど、データベースに人生や欲望の詳細を詰め込めば詰め込むほど、ソフトウェアプログラムはますます巧みに、人々の行動の微妙なパターンを発見して利用できるようになる。そのプログラムを利用する人間や組織は、人々が何を求め、何を動機とし、さまざまな刺激に対してどのように反応するかを識別できるようになるだろう。プログラムを利用する側は、まさにぴったりの決まり文句を使うなら、我々が知る以上に、我々のことを知っているのである。
  ワールドワイドコンピュータは、自己表現と自己実現のための新たなチャンスとツールをもたらすと同時に、一部の人々には前例のない能力を与えている。それは、他人の考え方と行動に影響を与えて、その関心と行動を自分たちの目的に沿うように収斂させる能力である。テクノロジーには、解放してコントロールするという、相反する特質がある。その特質の間に生じる緊張がいかに解決されるかによって、テクノロジーが社会と個人にもたらす最終的な結果は概ね決まるだろう。

 

  ギャロウェーが言うように、以前はつながれていなかったコンピュータを厳格なプロトコルによって支配されているネットワークにつなげることは、実際には「新たな支配装置」を作り上げてしまった。「ネットの設立原理は"支配"であって"自由"ではない。最初から支配は存在していたのである」。本質的に異なるワールドワイドウェブのページが、ワールドワイドコンピュータの一元的でプログラミング可能なデータベースに変化するにつれて、さらに強力な新しい種類の支配が可能になっている。プログラミングは結局、支配の手段以外の何者でもないのである。技術的には、インターネットがまだセンターを有していない場合であっても、いまやソフトウェアコードを通じてどこからでも支配を行使することができる。現実世界と比較して異なる点は、支配的行動を感知することはより難しく、支配する者を認識することもより難しいということである。

 

  結局、我々自身も、インターネットが可能にした個人化から利益を得ている。インターネットは我々を完璧な消費者兼労働者としたのだ。我々は、より大きな便宜のために、より大きな支配を受けている。クモの巣は我々にぴったりと合っていて、捕まっていても結構快適なのである。

村上彩 訳

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」第11章

「我々全員の内面で、複雑で内的な濃密さが、新しい自己に置き換わっている。それは、情報過多のプレッシャーと"何でもすぐに使えるようにする"技術の下で形成された自己である」。我々は「濃密な文化的遺産でできた精神的レパートリー」を捨てて空っぽにして、「パンケーキのような人間になる。薄く広く広がって、ボタンをちょっと押せばアクセスできる情報の巨大ネットワークにつながる」ようになるだろうと、フォアマンは結論付けている。
*リチャード・フォアマン 脚本家

メディアは、単なるメッセージではない。媒体は、頭脳でもある。我々が何を、どのように見るかを具体化する。印刷されたページは、過去五百年にわたって主要な情報媒体であり、我々の思考を形成してきた。ニール・ポストマンが指摘したように「論理、順序、履歴、注解、客観性、自立性および規律の重要性を強調してきた」一方、我々の新しい汎用媒体であるインターネットは、全く別のことを強調している。インターネットが重視するのは即時性、同時性、偶然性、主観性、廃棄可能性、そしてとりわけ速度である。ネットは何事に関しても、立ち止まって深く思考する動機を与えない。フォアマンが重要視する「知識の濃密な貯蔵庫」を我々の記憶の中に築こうとはしないのである。ケリーが言うように「自分で覚えておくよりも、二〜三回ググる」ほうが簡単なのである。インターネット上では、我々は大急ぎでリンクからリンクへと移動しながら、データのつるつるした表層を滑り回ることを強要されているように思える。
商業システムとしてのインターネットは、こうした行動を促進するように設計されている。我々はウェブのシナプスなのだ。我々がより多くのリンクをクリックして、ページを見て、処理して、それも速ければ速いほど、ウェブはより多くの知的情報を収集して、より多くの経済的価値を獲得して、より多くの利益を生み出す。我々がウェブ上では「パンケーキ人間」になったように感じるのは、それが我々に割り当てられた役割だからだ。ワールドワイドコンピュータと、ワールドワイドコンピュータをプログラムする人々は、フォアマンが言う「厚みがあり、複雑な質感で、密度の濃い、深く醸成された個性」を我々が発揮することにはほとんど関心を持っていない。彼らが我々に求めているのは、極めて効率的なデータ処理装置として動作し、人間の活動や目的をはるかに凌駕する知的機械の歯車となることである。インターネットの能力、範囲および有用性の拡大がもたらした最も革命的な結果は、コンピュータが人間のように考え始めることではなく、我々がコンピュータのように考えることなのだ。リンクを重ねるたびに、我々の頭脳は「"ここ"で見つけたもので"これを行え"、その結果を受けて"あちら"に行く」ように訓練される。その結果、我々の意識は希薄になり、鈍化していくだろう。我々が作っている人工知能が、我々自身の知能になるかもしれないのだ。

村上彩 訳

ニコラス・G・カー 「クラウド化する世界」エピローグ

「ロウソクの弱々しい光の中では、周囲の物が全く異なる、より際立った輪郭を見せることに私たちは気付いた。ロウソクの炎は、物に"現実味"を与えるのだ」この現実味は「電灯では失われてしまった。(一見すると)物はよりはっきりと見えるようだが、現実味という点では、鈍化してしまう。電灯は明るすぎるので、物はその本体や輪郭や質感を失う——ひとことで言えば、本質を見失ってしまうのだ」
・・・我々はもはや、炎が証明源だった時代が実際どんなふうだったかは知らない。エジソンの電球が登場する以前の生活を記憶している人々はわずかになってしまった。その人たちが亡くなれば、電気が登場する以前の昔の世界の記憶も失われてしまう。世紀の終わり頃には、コンピュータとインターネットが当たり前になる前の世界記憶に、同じことが起きるだろう。我々は、その記憶を持ち去る人々となるだろう。
  すべての技術的変化は、世代の交代である。新しい技術の最大限の力と重要性が発揮されるのは、その技術とともに育った人たちが大人になって、時代遅れの親世代を脇に追いやるようになってからだ。旧世代が世を去るにつれて、新技術が登場したときに失われた事物の記憶も失われ、獲得されたものの記憶だけが残るのだ。このようにして、進歩はその痕跡を覆い隠し、絶え間なく新たな幻想を生み出す——我々がここにいるのは、我々の運命なのだという幻想を。

 

村上彩 訳  

シュテファン・ツヴァイク 「人類の星の時間」序文

  どんな芸術家もその生活の一日の24時間中絶えまなく芸術家であるのではない。彼の芸術創造において成就する本質的なもの、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間の中でのみ実現する。それと同様に、我々があらゆる時間についての最大の詩人と見なし叙述家として感嘆するところの歴史も、決して絶えまなき創造者であるのではない。「神の、神秘に充ちている仕事場」——歴史をゲーテは畏敬をもってそう呼んだが——の中でもまた、取るにたりないことや平凡なことは無数に多く生じている。芸術と生命との中で常にそうであるように歴史の中でもまた、崇高な、忘れがたい瞬間というものは稀である。多くの場合歴史はただ記録者として無差別に、そして根気よく、数千年を通じてのあの巨大な鎖の中に、一つ一つ事実を編み込んでゆく。要するにどんな緊張のためにも準備の時がなければならず、どの出来事の具体化にも、そうなるまでの進展が必要だからである。一つの国民の中に常に無数の人間が存在してこそ、その中から一人の天才が現われ出るのであり、常に無数の坦々たる世界歴史の時間が流れ去るからこそ、やがていつか本当に歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現われ出るのである。

  芸術の中に一つの天才精神が生きると、その精神は多くの時代を超えて生き続ける。世界歴史にもそのような時間が現われ出ると、その時間が数十年、数百年のための決定をする。そんな場合には避雷針の尖端に大気全体の電気が集中するように、多くの事象の、測り知れない充満が、極めて短い瞬時の中に集積される。普通の場合には相次いで、また並んでのんびりと経過することが、一切を確定し、一切を決定するような一瞬時の中に凝縮されるが、こんな瞬間は、ただ一つの肯定、ただ一つの否定、早過ぎた一つのこと、遅過ぎた一つのことを百代の未来に到るまで取返しのできないものにし、そして一個人の生活、一国民の生活を決定するばかりか全人類の運命の経路を決めさえもするのである。

 

片山敏彦 訳  

工藤直子 「ねこはしる」

「いや  ちがうんだラン!よく聞いて
  きみになら……ともだちのきみになら
〈たべられる〉のじゃなく
〈ひとつになる〉気がするんだ

  おれ  アタマも  ひれも  心も
  きみに  しっかりとたべてもらいたい
  そうすることで  おれ  きみに
  ……きみそのものに  なれると思う

  な  ラン  目をとじて  感じてみよう
  ——おれのちいさなからだや心が
  きみのからだや心のすみずみまでしみとおる」

 

*おれ=池の魚   ラン=魚と仲良くなった子猫  

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  五十歳になると人はそろそろ、ある種の子供っぽい愚行をしたり、名声や信用を得ようとしたりすることをやめる。そして自分の人生を冷静に回顧しはじめる。彼は待つことを学ぶ。彼は沈黙することを学ぶ。彼は耳を傾けることを学ぶ。そしてこれらのよき賜物を、いくつかの身体的欠陥や衰弱という犠牲を払って得なくてはならないにしても、彼はこの買い物を利益と見なすべきである。
      *
  私は死にあこがれる。しかし、それは早すぎる死や、成熟しないうちに死ぬことではない。そして成熟と知恵をもとめるあらゆる欲望の中で、私はまだ人生の甘美で陽気な愚かさにすっかり夢中になっている。愛する友よ、私たちはみな、すばらしい知恵と甘美な愚かさをどちらも手に入れたいと望む!私たちはこれからも何度もともに前進し、ともにつまずこう。どちらもすばらしいことではないか。 

 

老いること
こういうことだ 老いることは かつての喜びが
苦労となり 泉も濁って出が悪くなる
その上苦痛さえも風味がなくなる——
人は自ら慰める 間もなくすべて終わりになると

私たちが昔あんなに強く拒絶した
束縛と重荷と負わされたもろもろの義務が
逃避の場となり慰めになってしまった
人はやはりまだ日々のつとめを果たしたいと思う

だがこのささやかな慰めも長くは続かない
魂は空を飛ぶ翼を渇望する
魂は自我と時間のはるかかなたに死を予感する
そして死をむさぼるように深々と吸い込む

 

岡田朝雄 訳 

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  自然の生命のある現象が私たちに語りかけ、その真実の姿を見せてくれるこのような瞬間を体験すると、私たちが十分年をとっている場合には、喜びと苦しみを味わい、愛と認識を体験し、友情と愛情をもち、書物を読み、音楽を聴き、旅行をし、そして仕事をしてきたその長い全生涯が、まるで、ひとつの風景、一本の木、ひとりの人間の顔、一輪の花の姿に神が示現し、一切の存在と事象の意味と価値が示されるこのような瞬間への、長いまわり道以外の何ものでもなかったように思われるであろう。
  そして事実、私たちが若いころに、花の咲いている木や、雲の形のできかたや、雷雨などの光景を見て、老年におけるよりももっと強烈な、燃えるような体験をしたとしても、私の言っているような体験をするためには、やはり高齢であることが必要である。数知れないほどたくさんの見てきたものや、経験したことや、考えたことや、感じたことや、苦しんだことが必要なのだ。自然のひとつのささやかな啓示の中に、神を、精霊を、秘密を、対立するものの一致を、偉大な全一なるものを感じるためには、生の衝動のある種の希薄化、一種の衰弱と死への接近が必要なのである。若者たちもこれを体験しないわけではないが、ずっと稀なことはたしかである。若者の場合は、感情と思想の一致、感覚的体験と精神的体験の一致、刺激と意識の一致がないからである。

 

  老年は、私たちの生涯のひとつの段階であり、ほかのすべての段階とおなじように、その特有の顔、特有の雰囲気と温度、特有の喜びと苦悩を持つ。私たち白髪の老人は、私たちよりも若いすべての仲間たちと同じように、私たち老人の存在に意義を与える使命を持つ。ベッドに寝ていて、この世からの呼びかけがもうほとんど届かない重病人や、瀕死の人も、彼の使命をもち、重要なこと、必要なことを遂行しなければならない。年をとっていることは、若いことと同じように美しく神聖な使命である。死ぬことを学ぶことと、死ぬことは、あらゆるほかのはたらきと同様に価値の高いはたらきである——それがすべての生命の意義と神聖さに対する畏敬をもって遂行されることが前提であるけれど。老人であることや、白髪になることや、死に近づくことをただ厭い、恐れる老人は、その人生段階の品位ある代表者ではない。自分の職業と毎日の労働を嫌い、それから逃れようとする若くたくましい人間が、若い世代の品位ある代表者でないのと同様に。

 

岡田朝雄 訳

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  私たち老人がこれをもたなければ、追憶の絵本を、体験したものの宝庫をもたなければ、私たちは何であろうか!どんなにつまらなく、みじめなものであろう。しかし私たちは豊かであり、使い古された身体を終末と忘却に向かって運んで行くだけでなく、私たちが呼吸している間は、生きているあの宝の担い手であるのだ。
    *
  叡智と私たちとの関係は、アキレスと亀の論証のようなものである。叡智が常に先行しているのだ。それに達するまでの途中は、その魅力を追いかけることは、それでもやはりすばらしい道である。
    *
  すばらしい魔物、万物が変転するという燃えるように悲しい魔力よ!しかし、それよりもはるかにすばらしいのは、過ぎ去ってしまわぬこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生きつづけること、そのひそやかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること、たえずくりかえし、それを呼びもどす言葉の中に、生きたまま埋められていることである。

 

岡田朝雄 訳 

ヘルマン・ヘッセ 「人は成熟するにつれて若くなる」V.ミヒェルス編

  私たち老人にとって現実はもはや生ではなく、死である。その死を私たちはもう外部からくるのを待つのではなく、それが私たち内部に住んでいることを知る。私たちはなるほど私たちを死に近づかせる老衰や苦痛に抵抗はするけれど、死そのものには抵抗しない。私たちは死を受け入れたのだ。私たちが以前よりもっと自分の体に気をつけ、大切にするように、死をも気をつけて大切にする。死は私たちとともにあり、私たちの内にある。死は私たちの空気であり、私たちの使命であり、私たちの現実である。 

 

  私たちは南洋の未発見の入り江に、地球の両極に、風や、潮流や、稲妻や、雪崩の解明に好奇心をもつ。——しかし私たちは、それよりも、死に、この存在の最後の、そして最も勇気のいる体験に、はかり知れないほどのはるかに強烈な好奇心をもっている。なぜなら、あらゆる認識と体験の中で、私たちがその認識と体験を得るためには喜んで命を捧げるに値する認識と体験だけが、正当で、満足できるものだということを確信しているからである。

 

岡田朝雄 訳