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本を掘る

これまで読んだ本から一節を採掘していきます。化石を掘り出すみたいに。

サン=テグジュペリ 「人間の土地」人間

  つまり、ぼくらは解放されたいのだ。つるはしをひと打ち打ちこむ者は、自分のそのつるはしのひと打ちに、一つの意味があることを知りたく願う。しかも徒刑囚を侮辱する徒刑囚のつるはしのひと打ちは、探検者を偉大ならしむる探検者のつるはしひと打ちとは、全然別ものだ。つるはしの打ちこまれる所に、必ずしも徒刑場が存在するわけではない。行為の中に醜さがあるのではない。それを打ちこむ者を、人間の共同体に結びつけもしなければ、また意味をもなさないつるはしが打ちこまれる所にこそ、徒刑場は存在するのだ。

  しかもぼくらは、そのような徒刑場からのがれたい念願の者だ。

 

  たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与える者は、また死にも意味を与えるはずだから。

 

堀口大学

アン・モロウ・リンドバーグ 「海からの贈りもの」にし貝

  しかしわたしは何よりもまず……ほかの望みもまた、そこを目指しているという意味において……わたし自身とひとつでありたい。それがわたしの望みだ。自分への責任や自分の仕事に、最善を尽くすために。
  ものごとの核心を正しくとらえ、通俗的なことに足をすくわれることなく、自分の生活の核に、いつもたしかな座標軸があることをわたしは望んでいる。

 

落合恵子

アン・モロウ・リンドバーグ 「海からの贈りもの」つめた貝

  現在という瞬間を生きていくこと……。それは、島での暮らしを、とても新鮮で純粋なものしてくれる。「ここ」と「いま」しかないところで、人は、子どもや聖者のように生きる。毎日が、また自分のすることのひとつひとつが、時間と空間に洗われた島となり、ひとつひとつが島のように完結したものとなる。そういった風景の中では、人もまた島となって満ち足り、平穏を得、他者の孤独を尊び、決して相手の岸辺を侵そうとせず、別な一個の個人という奇跡を前にして、畏敬の念を抱かざるを得なくなる。

 

  わたしはこれで、丸一日とふた晩、ひとりで過ごしたことになる。
  夜は海辺に出て、星の下で、ひとり横たわっていた。ひとりで朝の食事をし、桟橋でわたしが投げる餌を鴎がくわえては舞い上がり、また水面めがけて舞い降りてくるのを、ひとりで眺めていた。午前中は机に向かって仕事をし、海辺で遅い昼ご飯をひとりで食べた。
  こうして、同類、つまり人間から離れていると、ほかの動物に親近感を抱くようになる。わたしが背にした砂洲に巣を作っている臆病な鴫や、濡れて光る波打ち際をわがもの顔で駆け回っている千鳥や、頭の上をゆっくりと飛んでいくペリカンや、からだを丸めて不機嫌そうに水平線を見ている老いた鴎や……。そういったものとわたしとのあいだに、ある種の超越した繋がりを感じるのだ。そしてその繋がりに、深い喜びを覚えるのである。
  地上と、海と、空の美しさ。そういったものが以前より大きな意味を持ち、それらとわたしは一体になる。わたしは宇宙に溶け込んで、自我から解き放たれる。それは、大聖堂で、見知らぬ大勢の人びとが讃美歌を歌っているのに耳を傾ける時に似ている。

 

落合恵子

アン・モロウ・リンドバーグ 「海からの贈りもの」あおい貝

  昼間の仕事や、細々としたこと、親密な感情や、心を開いて話した後でさえ感じる、ある種の窮屈な感覚……。その感覚の後には、新鮮な潮流のように胸に流れ込んでくる満点の星の夜の、そんな限りない大きさと全体性が欲しくなるものだ。

 

落合恵子

アン・モロウ・リンドバーグ 「海からの贈りもの」ほんの少しの貝

  一本の木は空を背景にして、はじめて意味を持つ。音楽もまた同じだ。ひとつの音は前後の静寂によって生かされる。蝋燭の光りは、夜の闇に包まれて炎の花を咲かせる。ささやかなものでも、周りに空間があれば、意味を持つようになる。余白の多い東洋画の片隅に、秋草が数本だけ描かれてあるのも、その一例である。

  退屈なことだけではなく、重要なこともまた、わたしたちの生活の邪魔をする。ひとつかふたつの貝殻こそ意味があるのに、わたしたちは宝もの……、貝殻を持ちすぎているのだ。
  この島には空間がたっぷりとある。不思議なことに、島という限られた場所で、かえって空間を感じさせられる。地理的に遠いこと、ひとりでいることの限界、連絡がとりにくいことから、どうしても行動の範囲が限られてくる。そして、仕事も人も物も多すぎず、どれもが充分の時間と空間の中に置かれている。

 

落合恵子

ヘミングウェイ 「武器よさらば」第3部

ぼくらは雨の中に立ちつづけ、一人ずつ引き出されては尋問され、銃殺された。これまでのところ、尋問された者は残らず銃殺された。尋問者たちはいずれも、自らは死の危険に瀕することなく、死を宣告する者に特有の、あの見事なまでの冷厳さと、峻厳な裁きに対する忠誠心を備えていた。

 

高見浩 訳

ヘミングウェイ 「武器よさらば」第5部

人間とはそういうものなのだ。人間は死ぬ。死ぬとはどういうことかも、わからないうちに。知る時間も与えられないうちに。人間は偶然この世に放り出され、ルールを告げられ、最初にベースを踏み外したところを見つかったとたんに、殺されてしまう。もしくはアイモがそうだったように、何のいわれもなく殺されてしまう。もしくはリナルディのように梅毒をうつされる。けれども、結局は殺されるのだ。それはまず間違いない。のらくらしているうちに殺されてしまう。

 

高見浩 訳

ドストエフスキー 「罪と罰」第6部

「罪?どんな罪だ?」と彼は不意に、発作的な狂憤にかられて叫んだ。「ぼくがあのけがらわしい、害毒を流すしらみを殺したことか。殺したら四十の罪を赦されるような、貧乏人の生血を吸っていた、誰の役にも立たぬあの金貸しの婆ぁを殺したことか。これを罪というのか?おれはそんなことは考えちゃいない、それを償おうなんて思っちゃいない。どうしてみんな寄ってたかって、《罪だ、罪だ!》とおれを小突くんだ。いまはじめて、おれは自分の小心の卑劣さがはっきりとわかった、いま、この無用の恥辱を受けに行こうと決意したいま!おれが決意したのは、自分の卑劣と無能のためだ、それに更にそのほうがとくだからだ、あの……ポルフィーリィのやつが……すすめたように!」

「兄さん、兄さん、なんてことを言うんです!だって、あんたは血を流したじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望的に叫んだ。

「誰でも流す血だよ」と彼はほとんど狂ったように言った。「世の中にいつでも流れているし、滝みたいに、流れてきた血だよ。シャンパンみたいに流し、そのためにカピトーリーの丘で王冠を授けられ、後に人類の恩人と称されるような血だよ。もっとよく目をあけてみてごらん、わかるよ!ぼくは人々のために善行をしようとしたんだ。一つのこの愚行の代りに、ぼくは数百、いや数百万の善行をするはずだったんだ。いや、愚劣とさえ言えないよ。ただの手ちがいさ。だって、この思想自体は、たとい失敗した場合でも、いま考えられるような愚劣なものでは、決してなかったんだ……(失敗すれば何でも愚劣に見えるものさ!)この愚劣な行為によって、ぼくはただ自分を独立の立場におきたかった、そして第一歩を踏み出し、手段を獲得する、そうすれば比べようもないほどの、はかり知れぬ利益によって、すべてが償われるはずだ……ところがぼくは、ぼくは、第一歩にも堪えられなかった、なぜなら、ぼくは—卑怯者だからだ!これがすべての原因なのだ!それでもやはりぼくは、おまえたちの目で見ようとは思わん。もし成功していたら、ぼくは人に仰ぎ見られただろうが、いまはまんまとわなに落ちたよ!」

「でも、それはちがうわ、ぜんぜんちがうわ!兄さん、あなたはなんていうことを言うの!」

「あ!形がちがうというんだね!それほど美学的にいい形じゃないというんだね!それが、ぼくにはまったくわからんのだよ。どうして人々を爆弾で吹っとばしたり、正確な包囲で攻め亡ぼしたりするほうが、より尊敬すべき形なんだろう?美しさを危ぶむというのは無力の第一の徴候だ!これをいまほどはっきりと意識したことは、これまでに、一度もなかった。だからいままでのいつよりも、いまが、ぼくは自分の罪が理解できんのだ!ぜったいに、一度も、ぼくはいまほど強く、そして確信にみちたことは、ない!……」

工藤精一郎 訳

ポルフィーリィのやつがすすめた→殺人の罪を自首してその分減刑を受けること

イサム・ノグチ 「ある彫刻家の世界」

I have since thought of ... my close embrace of the earth as a seeking after identity with some primal matter beyond personalities and possessions ... I wanted something irreducible, an absence of the gimmicky and clever. 

 

それ以来私は(孤独な自己幽閉と)しっかりと土を抱擁することを思い続けてきたが、それは、個性とか小さな自分を超えたある根本的なものとの一体化の追求であった。私は自分の仕事のなかに、なにか他にかけがえのないものを求め、小細工や気の利いた風なものを排除したいと思った。

 

小倉忠夫 訳

 

イサム・ノグチ (アナ・マリア・トーレス「イサム・ノグチ 空間の研究」より)

芸術を成り立たせるもののひとつが、芸術の持つ意味であるとするならば、その秩序もまたしかりである。芸術の実践によって秩序が調和へと導いてくれることがどれほど必要なことか。それがないとただの野蛮になってしまう。私は彫刻はとりわけ秩序の芸術であり、秩序は調和を生むもの、空間に調和と人間性をもたらすものと考えている。

 

相馬正弘 訳

ジャン・ジオノ 「木を植えた男」

あまねく人びとのことを思いやる
すぐれた人格者の精神は、
長い年月をかけてその行いを見さだめて
はじめて、偉大さのほどが明かされるもの。
名誉も報酬ももとめない
広く大きな心に支えられたその行いは、
見るもたしかなしるしを地上に刻んで
はじめて、けだかい人格のしるしをも
しかと人びとの眼に刻むもの。

 

寺岡襄 訳

 

 

 

ジャン・ジオノ 「木を植えた男」

どんな成功のかげにも、逆境にうちかつ苦労があり、どんな激しい情熱を傾けようと、勝利が確実になるまでには、ときに絶望とたたかわなくてはならぬことを知るべきだった。

 

ある年、ブフィエは一万本ものカエデを植えた。
ところが苗は全滅し、かれは絶望のふちに立たされた。

一年たって、カエデはあきらめ、ふたたびブナの木を植えはじめて、ようやくカシワ以上にうまく育てた。

 

このたぐいまれな不屈の精神を思うとき、それがまったくの孤独の中で鍛えられたのだということをけっして忘れてはならない。そう、生涯の終わりにかけて、ほとんど言葉を失うほどの孤独の中で。

 

寺岡襄 訳

 

シモーヌ・ヴェイユ 「根を持つこと」

今日、小学校に通っている農民の子どもは、ピュタゴラス以上にそれについて知っていると一般には信じられている。子どもが従順に、地球は太陽のまわりを廻っていると受け売りするからである。ところが実際には、子どもはもはや星を見てはいないのである。教室で教えられる太陽は、子どもにとって、彼が見る太陽となんらの関係も有しない。ひとは子どもを、彼を取り囲んでいる世界から引き離してしまう。

 

山崎庸一郎 訳

シモーヌ・ヴェイユ 「根をもつこと」

義務の観念は権利の観念に優先する。権利の観念は義務の観念に従属し、それに依存する。一つの権利はそれ自体として有効なのではなく、その権利と対応する義務によってのみ有効となる。一つの権利が現実に行使されるにいたるのは、その権利を所有する人間によってではなく、その人間に対して何らかの義務を負っていることを認めた他の人間たちによってである。義務は、それが認められた時すぐさま有効となる。だが、一つの義務は、例えだれからも認められない場合でさえ、何らその存在の十全性を失うことはない。ところが、だれからも認められない権利は、取るに足りぬものである。

 

山崎庸一郎 訳

ニーチェ 「善悪の彼岸」箴言と間奏

高い感覚の強さではなくて、持続が、高い人間を作る。

 

よい評判をうるためにすでに一度、自分自身を犠牲にしなかった者があるだろうか。

 

狂気は個人の場合には滅多にないことである、しかし集団、党派、民族、時代の場合には定例である。

 

人は結局自らの欲求を愛しているのであって、欲求されたものをではない。